再生への旅

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zoom RSS 清浄なるままに生きる

<<   作成日時 : 2012/08/04 04:02   >>

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逃げる気も逃げやうもなく炎ゆる日を 玉宗


八月三日午前十時半より興禅寺盂蘭盆施食会法要を修行した。組寺の覚皇院様と大本山總持寺祖院から雲水さん四人の随喜を戴き無事円成。日中、三十度を越える中で、墨染の衣も、さぞや暑苦しかったことであろうが、傍目には涼しげに所作進退をこなす雲水さんは頼もしい存在でもある。

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弟子の孝宗も導師の侍者の配役で出席。上山前よりは体も締り雲水らしくなってきていたが、まだまだ弱々しさが隠しきれない。それでも表情や身のこなしを見ていると、彼の中の「素なるものの輝き」といったものが芽生えてきているのことを師匠は感じていた。

芋の子を洗うが如き安居修行の日々。「我」というありもしない「妄想の虜」から脱する日々。それは彼の身や心に付いた様々な棘や瘤や癖といた「角がとれる」という日々でもある。癖のない、まっさらな、素なる命の真っ直ぐさ、輝きといったものがある。精進というも、そのような自己に回帰するための一方通行の道程である。

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それは決して生易しいものではないが、苦行でもない。自己が自己になるだけのことであり、「苦」である訳がない。その辺の通塞、実感といったものは自得する世界であり、又、そうでなければならない。誰も自分に代って自分を生きてはくれぬという極めて当たり前の厳しく、そして安住なるいのちの話しである。

清浄にして、無一物なる命。そこを狙って行く、仏道とはそれだけのことだ。それが仏弟子の生きる意義であり、支えであり、一大事であり、宝なのであるということ。そのような貴重なものを得る為の日々、本当の自己に出会うための日々はまだ続くことであろう。

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生きるというも、修行というも、食を施し施され、ものを施し施され、身を施し施され、心を施し施され、言葉を施し施され、生を施し施され、死を施し施される。それを学ぶことに他ならない。命ここにあることの軌跡は、貪りを離れた真実の捨身にして捨心の供養があればこそのことである。いのち生きるという自己更新の日々である。「清浄」、それは「私の都合」を優先する事ではない。「私の作為」ではない。

執着というものは命の清浄さと懸け離れる生き方であり、それを輪廻とは云う。そのような輪廻を断つことが仏弟子としての自己確立でもある。傲慢にならず、卑下慢にならず、貪らず、飢えず、潤いある人生を歩んで行かなければならない。命の恩を返すというも、自己の命をどこまでも清浄なるものとして保持し続けて行くことに他ならない。その道中に「感謝」とか「報恩」といった思いも自ずから湧いてくることであろう。

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弟子はそのような「学び」を師匠から受け継ぐには違いない。
修行の実際、真偽も又、師匠である私自身が身を以って、心を以って範を示していかなければならない。









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持ち物は褌ひとつ後は月   よし
yoshiyoshi
2012/08/04 05:07

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