再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 秋の風景/さよならも又、「行」である

<<   作成日時 : 2012/09/23 04:56   >>

トラックバック 0 / コメント 2

画像


露草に呼び止められし如くなり 玉宗

輪島も最低気温が二十度を切るようになった。秋の彼岸も中日が過ぎ、色なき秋風にもの思う今日この頃。秋はみな風待ち顔、或いは後ろ姿ばかりが目に付くとでも言おうか。

ところで僧堂は現在、解間の時期。春先もそうであるが、この時期もまた修行の年季を終えてお山を降りる光景が見られる。先日も二年ほど安居していた雲水さんが興禅寺に送行の挨拶に訪れてくれた。塔頭寺院に挨拶する義理もないのだが、時々、心ある雲水さんが来てくれる。

自坊へ帰るその顔は晴々としていていたが、慣れ親しんだ僧堂生活を離れることへの一抹の寂しさもあるであろう。精一杯、元気な表情をしている様子に、いつものことながら胸が熱くなる。
自分なりの目標を達成したことへの安堵と、これからは一人の修行が始まるのだという不安が綯い交ぜになっていることは十分に察することができる。

安居修行という謂わば、仲間と共にある自律・他律の生活。それは自己を見る目が育てられていく過程でもあろう。仏道はいつ、どこでもぶれない自己を確立することにほかならない。そのような僧堂生活を離れるのである。「送行(そうあん)」とは、送る方も送られる方も、仏道という永遠の道をひととき共に歩いたという勝縁を再認識するときでもある。「別れ」もまた「行」である。

俗にも「初心忘るゝべからず」と云う。仏道の世界に於いても「下山の道は上山の道」という心術がある。
会うは別れの初め、というより、会別はどちらも新たな門出であり、飛躍であり、再生である。いつでも、どこでも一期一会のわが命の様子とて戴き、施し生きて行くしかあるまい。自己の脚下を晦まさず、目を真っ直ぐ前に見据えて、肩肘を張らずにあるがままに生きて行く。「行」に際なく、「道」に果なし。

住職になったとて、そのような雲の心、水の意に添った仏弟子であり続けるだけである。「生涯雲水」それが仏道の本懐であると私は思っている。頑張れ、雲水!






ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
秋の雨みな行きずりであるほどに  よし
yoshiyoshi
2012/09/23 06:53
おはようございます。今回の一文を読ませて頂いていますと井伏鱒二さんが唐詩選「述懐」の最終行を「さよならだけが、人生だ」と訳された言葉が浮かんできました。厳しい仏道修行への眼差しを語れていますが、其の中にも、人間味溢れる気持ちを感じさせて頂いたからと思います。秋深し隣は何をする人ぞーーと味わう秋となりましたが、暖かい気持ちにさせていただきました。ありがとうございました。sikunsipota拝
sikunsipota
2012/09/29 08:33

コメントする help

ニックネーム
本 文
秋の風景/さよならも又、「行」である 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる