再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 無縁有縁に囲まれて

<<   作成日時 : 2012/09/24 04:14   >>

トラックバック 0 / コメント 4

画像


瘡蓋の痒くなるころ鳥渡る 玉宗

先日、檀家ではないのだが、近所で生活保護を受けていた一人暮らしの女性が亡くなった。親戚筋に連絡も取れなかったらしく、数日経って故人と近所付き合いしていた方がお寺を訪ねて来た。事の成り行きで喪主という立場になり、亡くなったその日に市役所の所員立ち合いで火葬に付した。お骨になったので暫くお寺で預かってくれないかと云う。

世話をした方も、自分のお寺に申し出ることもなく私のところにやってきた訳である。言ってみれば無縁仏なのであるが、永福寺には時々訳ありのお勤めさせて戴くことがある。それにしても今回のような事例は初めてのこと。詳細を聞けば葬儀もしていないとのこと。中陰の功徳を積むべき遺族もいないらしく、近所の誼で件の主人が出来る限りの後始末をしているらしい。
無縁社会、無葬儀、生活保護・・社会の変容、歪、その人生模様が如実に反映されている。そこには都会も田舎もない。

然し、このような社会現象は現代に特有のものではあるまいとも思う。昔の方が余程「無縁仏」に巡り合っていた厳しい現実であっただろう。本来「無」も「有」も「縁」の様子である。問題なのは、そのような社会の無常にして無情なる様子と共に、「無縁仏」を供養してあげようといった人間がいたかどうかということ。それはお坊さんの役割であろうと云われればそうでもあろうが・・・。

いずれにしても無縁仏を供養させて戴くのも私の因縁である。それは受け入れるのに吝かではないが、このような事例に対応できるように無縁塔なり、納骨堂なりを施設しておかなければならないと考えさせられた。言いかえれば、このような社会の現実に疎かった自分の世間知らずに気付かされたことでもあった。もしかしたら、現代の無縁社会、無縁仏、無宗教云々の騒ぎはお金にならぬお経は読まぬお坊さんを糾弾し、覚醒させようという声なのかもしれない。無縁、有縁に囲まれて生きている自己である。有無に拘らず真心を尽くすようなお坊さんではありたいと思っている。








ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
籠に寝て朝の光りを虚抜菜   よし
yoshiyoshi
2012/09/24 06:39
まったく仰るとおりでございます。私の街にも身寄りのない独居老人がずいぶんいらっしゃいます。区内の民生委員さんとご近所衆がフォローしてくださいます。
閑話ノート
2012/09/24 09:55
子どもの頃から、墓参の最後には「無縁様」にお線香を手向けました。今は、納骨堂もありますが、私には管理する人のいなくなった墓石が並んでいる「無縁様」の方が何故か手を合わせやすい気がします。お盆、お彼岸と「無縁様」の前にはたくさんの線香があげられています。ホッとします。いつか私も「無縁様」になるのでしょう。

2012/09/24 18:41
地縁のお寺さんが頼られるのは、社会的役割かもしれませんね。市町村の宗教的中立とは、次元が違うような気がします。たとえば教会の牧師さんだったら、どのように対応するでしょうか。
志村建世
2012/09/24 23:35

コメントする help

ニックネーム
本 文
無縁有縁に囲まれて 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる