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zoom RSS 今日の涅槃寂静・欲望、またの名を生きる力

<<   作成日時 : 2012/09/04 04:06   >>

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秋風や己れ励まし飯を喰ふ 玉宗

仏道の話をすると、「私のような凡人にはとても・・」「煩悩だらけでとても、とても・・」などと一見尻込み、謙遜される方々が結構いらっしゃる。まあ、最初から興味のない話を敬遠する方便なのかもしれないが、それにしても「欲望や煩悩」についての紋きり型認識に閉口しないこともない。

自己の命の真相に目を向けて諸行無常をしっかり生きていこうという話についていけないと感じるのは「仏道」が何か今の自分とは全く違った世界へ舞い込んでしまうようなイメージ、妄想が湧くからだろうか。「マインドコントロール」に負のバイアスを垣間見るからだろうか。精進に苦行の姿を重ね合わせるからだろうか。苦しいよりも楽しく、易しい方につきたがる人情を笑うつもりはないのだが、コントロールといえば尻込みするが、自己を調えなくて済ます人生があるというのも考えにくい。

仏道は極端なものではないと私は捉えている。世間の欲望の処し方の方が私などにはとても尋常とは思えぬ。というか危なかっしくてしょうがない。誰も本気で煩悩の解決や凡聖の設問が一大事因縁だとは思っていないようにさえ見える。煩悩を懐かしがっている節もある。

それにしても、いったい誰が凡人でいいと言い出したのだろう。凡人とは何様のことなのだろう。いったい誰が煩悩のままでいいと言いだしたのだろう。いったい誰が自己の主人公は煩悩であると言い出したのだろう。誰が煩悩の後始末ができるというのだろう。

命の欲望、それは確かに生きる力の表現と言ってよいもので、仏道と雖も欲望の界隈でどう生きて行くかという話である。また、命そのものに凡も聖もない。その絶対性は比べようがない。あるのはそれぞれのいのちの欲望の関わり方だ。外から見てその関わり方に評価を付ける癖が人間にはある。娑婆世界がそのまま道場であると云うのが避けられない修行の実際である。

欲望を調えることが叶わず、煩悩と変質し、自己を縛り、盲目となり、自己疎外し、妄想の炎に苛まれ、自傷し、本末転倒するとき。それこそが聖なる命が凡に成り下がるときなのかもしれない。人様から「凡人だな」といった評価を受ける受けないなどといったことは大した問題ではない。自己を知るのは自己のみ。自己の欲望を調え、いのち真っ直ぐという精進を実践し、寂静なる命の涅槃に親しく生きる。欲望に生きるのではない。欲望という生きる力を仏道を歩む力に転換するのである。欲望で自己を満たすのではなく、欲望で自己を調える。そのようにして事を成す者をこそ「凡聖を」超えた大人とは謂うのではなかろうか。





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この村のなべては役目を終える蝉  よし
yoshiyoshi
2012/09/04 04:19

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