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zoom RSS 究極の自己責任・「私は私であって私でない?!」

<<   作成日時 : 2012/09/06 04:59   >>

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てのひらに山河あり鳥渡りけり 玉宗

能登半島地震で被災し、伽藍が全壊したことは何度も記事にして来たので、気が引けるのであるが、それでも書かずにいられない事がある。それほどに私にとっては忘れられない体験、痛棒であった。その実感とは、当に、大地震に遭うことがまるで宿命であったが如き、あの日のために私の五十年の生涯があったかのような思い、震災に遭うためにそれまで生きて来たのだという動かし難い実感に捉えられていた。

北海道に生れ、公務員を辞め、本州に渡り出家し、夜逃げし、又、得度し直し、宗門のお坊さんになり、僧堂を渡り歩き、結婚して輪島の寺に落ち着き、北海道へ出稼ぎに行ったりして、子どもを二人授かり、帰省して僧堂へ再安居し、間もなく役寮として出仕し、興禅寺の住職となり、俳句を再開し、僧堂生活の紆余曲折があり、参学師、本師、姉、兄などの肉親を相次いで亡くし、僧堂を辞し、自坊に引き籠り始めていた。その矢先の能登半島地震であった。

半端ながらも色々あった。あり過ぎるほどあった。然し、振り返れば人生とはあっという間、どころではない。あってなきが如くである。そうではあるが、今ここに、こうして生きて、息を吸って吐いている事実がある。命生きている最先端であるこの事実は、誤魔化しようもなく、避けようもなく、私が生きて来た事実の集積であり、ベクトルであるに違いないのだ。

そのような覚悟を持ちながらも、生きているという縁のあり様は、私の思いを越えて来る如く、去る如くと言わざるを得ないだろう。私は私であって私でない。いのち生かされている実際の端的にして、その実相は、私という限定を越えたものに左右されているような存在である。私というささやかさはいわく言い難い大いなるものと一体であるが故の孤立感といったような代物である。

事に於ける自己責任といったことも、仏道的にはそのような次第の自己の世界のことである。責任とは何か?いのち生きるに当たっての責任の所在。そのようなものがあるのだろうか?責任を云々しなければならないということは、そこに権利とか義務といった観念が介在しているからだろう。生きることは何かを為すに当たっての権利や義務の遂行なのだろうか。

確かに私は所謂、社会的存在者として限定されつつ生きている。その様な領域での責任の話をしているのではない。命の絶対性の上での自己責任といった領域、つまり誤魔化しの利かない世界のことである。謂わば、究極の自己責任。生きているときも、死んでいくときも、自己を生きるのは自己以外にないといった信仰に生きる者の自己責任の所在。

真の信仰は自ずからなるものであろう。命生き切るといった責任もまた、已むに已まれぬ命の自ずからなる切実さの表白ではなかろうか。つまりそれは仏道に生きる覚悟と同義なのである。










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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
老いの秋立つも座るも声が要り  よし

どっこらしょ。
yoshiyoshi
2012/09/07 07:17

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