再生への旅

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zoom RSS 今日の妄想・生きる張り合い

<<   作成日時 : 2012/09/07 04:07   >>

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生きてあれば死もまた親し花茗荷 玉宗

ときどき生きてゆく張り合いといったところにブレーキが掛ることがある。

それはつまるところ、「生きていく張り合い」といった事に感けた、謂わば私の物足りようとする思いの葛藤であり迷いである。そんな時は夫人に愚痴を聞いて貰うか、ボーとするか、山をうろつくか、坐禅をするか、不貞寝してしまうか、俳句を作るか・・・いずれにしても、再び全うな生きる力が湧いてくるまで多少時間がかかる。それは、儚き思い、思いの儚さ、つまり妄想に振り回されぬように身に付けた知恵のようなものだ。そんなことを繰り返して、出来ることなら人生を気楽に、身も心も軽く、真面目に、そして自覚的に生きてゆこうとしている私がいる。

私も人並みに自分の弱さや無知を少しは克服しなければならないと思っている。それはつまり、人生の羅針盤を見つけ、生きる重心といったものを身につけなければならなかったということ。一度生まれただけではすまぬ、手間のかかる、変な癖をもった人間の宿命なのであろう。出家している私とはそのような類の人間なのであり、それは大して自慢できることでもなく、人に褒められるようなことでもないが、自分を卑下しようとするには正直、何かがもの足りない。

控えめに云うのだが、それはもしかしたら私の命の根っこが、私自身ではない大いなるものと既に一体であることを証明しているのかもしれない。箇を越えているものを箇中に育むことによって、なんとか自立的に、具体的に、自然に生きてゆくことができる。思えば不思議なことだ。私は私であって私でない。私は私を超えられないとはそういうことだ。そもそも本来、存在とは、私であるとかないとか、私を越えるとか越えないとかという態のものではないのかもしれない。その不確定性たるや神業としか言いようのない代物であると言っても過言ではなかろう。確かに神は己に似せて人間を創造したようだ。

逆説的に云えば、存在というものがそのようなものであるからこそ、私は私でない世界を憧れ、大いなるものと一体であることに安心出来るのだろう。人生、生きていれば色々悩み悔み嗟嘆することもあるが、そのようなわが思いに左右されず、汚されない、端的にして遥かなるものがある。歯痒いことではあるが、そのようなものが私の生きる力になっていると言わざるを得ない。「私の生きる張り合い」「私の生き甲斐」、そのようなものは本来的に大した問題ではない。







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仏舎利塔今宵月の座奪いけり  よし
yoshiyoshi
2012/09/07 07:21

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