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zoom RSS 今日の管見・世間知らずについて

<<   作成日時 : 2012/09/08 04:07   >>

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さびしさやもの食ふ音と虫の声 玉宗

「世間知らず」という言葉がある。経験が浅く、世の中の事情にうといこと。また、その人やそのさまを指しているらしい。

経験が浅い事が世間を知らない要因に挙げられることは納得できるが、長く人生を生きて来らしい人物にも如何にも世間知らずと評価したくなることがある。又、世の中の事情に疎いことも条件らしいが、世の中の事情というのも有象無象、裏表あって中々一筋縄ではいかない。そのような厄介さをこそ世の中の事情とか現実は甘くないといったりするときの現実なのだろう。要するに「欲望の展開する娑婆世界」ということ。それを知らないことを「世間知らず」と言う。そのような評価を戴くことは決して人間性の減点対象と言い切れるものではないと私などは構えているのだが、一般的には嘲笑的評価なのだろう。

唐突であるが、拙ブログを御愛読の皆さんには、私と夫人と、どちらが世間知らずに見えているだろうか?
私に言わせれば夫人の人間観察は人間性の半分しか見ていない。見ようとしないとも言える。清濁併せ呑めと無理強いさせたい訳ではないが、人間性にはよくも悪しくも、裏表があり、「縁」に依って様々な色合いが付くものだというのが私の人間観察の起点である。環境に因って人間性もカメレオンのように「縁」に順応する。生きるとはそういうことだ。それは善悪を超越している。

朱に交われば赤くなる。それは人間性という素地が無垢で色に染まっていないと云うことを言っていよう。私は何物でもなく、何物にもなれる「命という可能性」そのものである。だからこそ人間性の陽の面を大切にして行こう、というのが夫人の生きる姿勢にはあるようだ。それはそれで尊いことだと私は敬服はしている。美しい生き方だとさえ思っている。そんな夫人が最近、「私ってつくづく世間知らずだったのね・・」とため息をつくことが多くなった。少し気になっている。へこたれている風がないでもない。対人関係や子育てに対するこれまでの寄り添い方に自信喪失しているらしい。

夫人は以前からお坊さんや寺族というものは「清らかな生き方をせねばなりません」といったバイアスが掛っている。それは彼女自身も認めているところである。問題はその「清らかさ」なのである。それを夫人に説明することは如何にも難しい。

「だから云わんこっちゃないんだよ。清濁併せてなんぼのもんが世間なんだから、今更落胆することもねえべよ。自慢じゃねえけど、おいらはとっくに世間知らずに胡坐をかいちゃっているもんね。」

「私、別に後悔している訳じゃないんだけど・・・、お父さんは凄いわね。なんでそんなに図々しく生きて行けるの?」

「・・・・・、そりゃあ、あんた、それが仏道だからだよ・・・」

違うか。









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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
蝉絶えて道の遠さを知らさるる  よし
yoshiyoshi
2012/09/08 06:09
教師の常識、世間の非常識 と揶揄されます。教師はそんなに狭い人間関係の中で生活しているのでしょうか。そうは思いませんが、確かに私を含めて「世間知らず」の人間は多いようです。でも、ご住職の言われるように世間とは「欲望の展開する娑婆世界」であるならば、初めからそうと割り切って教師をしている人間の方が「出世」しているように思われます。世間知らずの反対は世渡り上手?愚妻は専業主婦です。私が退職してから地域の行事や趣味の会に参加しています。いつも怒っています。「全く変な人ばかり!」私も叱られます「お父さんの考えは変よ」昔から痛烈に教師批判もします。妻も私もそれぞれの「世間」しか知らないということになるのでしょうか。偕老同穴の契りは結べない?

2012/09/08 09:45

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