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zoom RSS 性は仏道にとってタブーであるか?!再考

<<   作成日時 : 2012/10/17 03:57   >>

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石蕗の予想外なる眩しさよ 玉宗   


「性」は仏道に於いてタブーであるかないか?
タブーであるとすれば私も含めて多くのお坊さんがタブーを犯していると云う解りやすい現実が見えてこよう。タブーを侵すことは破戒となるとする見解もあるだろうが、大乗戒では人倫に反した、鬼畜の所業のレベルでの性の浪費・貪りが破戒であるといった立場も否定できないだろう。

私の結論を先に云えば、「性」そのものは本能という「命」の領域に属する反応である。「生」の一面の欲望である。仏道は欲望を抑え込んだり、無きものにする有為ではなかろう。欲望の調え方、欲望との離れ具合、中道を学ぶものではなかろうか。それもこれも、人生の主体を欲望に振り回され、掻き回され、足元をすくわれないようにせんが為であると心得ている。「性」は人生を後押しする力であろうが、人生の主体ではない。「セックス」だけが人生の目的、人生の意義という方もおられるだろうが、私の前頭葉はそれを許さない。

「性・生」がタブーならば「死」もまたタブーであろう。自他も、陰陽も、日月星辰、山河大地、迷悟もまたタブーとなるであろう。ここでもやはり自己の命の戴き方、施し方が試されている。確かに「闇」をタブー視する弱さや畏れのようなものがある。しかし、煩悩を外してみるならば「性・生」そのものはタブーでもなんでもない。そもそもあるとかないとかという問題すら抱えていないように見える。実にあっけらかんと大らかなもんである。郭然無聖と言ってもいいくらいだ。そのような事実への慎みはある。

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さて、生まれた環境の所為か、先天的なものか、正直なところ、どうも形而上的にも形而下的にも「性・生」に関して天下に憚りつつも、どこかで箍を外したいといったところがある。要するに自己の「性・生」というものを天下には隠して置きたいが、性の伴侶でもある夫人にはあからさまでいたいという癖がある。これが中々に抜き難い。それがそのままお坊さんにして芸術を好む人間の矛盾力のようなものにさえ思えてくる。(われながら何を言っている訳がわからん・・)

夫人には「お父さんはなんでも露出し過ぎです!」と窘められることが多く、それは確かに認めざるを得ない破目にはなっている。道元さまが今の世に居られたら即刻僧籍を剥奪させられることだろう。しかし、そんな私にもきっと無意識の中にアンタッチャブルな領域を抱えているに違いない。命とはそういうものではないか。それがなんであるか私自身にもはっきりしてはいないのだが。

「性」に関したことを口にするだけでも、否、思い描いただけでも修行の妨げになるという祖師の思し召しがある。陰処なども、人がいようがいまいが、隠さなければならないとし、人が見ていなくても天神鬼神がみそなわしているのだと。目に見える世界だけが「生」の全てではないという古人の姿が見えてくる。それもこれも煩悩に修行の隙をつかれ、足元を掬われる因縁となることを危ぶんでの親切心からであろう。

それにしても、平成の世の肉食妻帯・世俗化を憚らない僧侶の変わり様は想像もできなかったのではないだろうか。道元禅師が今の世に生きて居られたらと思うと忸怩を通り越して、凍りつくような思いがある。道元禅師こそ宗門僧侶にとってタブーではないかと思われないではない。




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爪紅を塗っておんなを装う子  よし
yoshiyoshi
2012/10/17 07:15

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