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zoom RSS 今日の妄想「親の顔」

<<   作成日時 : 2012/10/28 04:11   >>

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蟷螂の貌は先刻暮れてをり 玉宗


昨日、裏山を散策していて、ふと親の顔の記憶が薄れていることに気付き、愕然とした。

私の手元には実の両親の写真がない。出家した際に家から持ち出したものの中に父や母を含めた家族の写真といったものは含まれていなかった。長男である兄の元にはあるかもしれないが、その兄も三年前に事故で亡くなり、親の写真を手に入れる機会を未だに逸したままである。

出家後に何度か記念写真などを撮ってはいるが、私は記念写真を含めた写真の被写体になることが今でも苦手である。シャッターを切る際の、あの間の抜けた緊張感がどうもいけない。カメラという無機質の物体に対して緊張しなければならないことがどうにも受け入れ難い。確かに、レンズの向うには撮り手の眼差しがあるにはあるが、写真に撮られる関係といったものにどこか服従関係の匂いを嗅いだりする。私が頭を垂れ、無心になるのは神仏だけだ。(われながら面倒くさいな・・・・)

というより、写真にはどこか「魂を抜かれる」といったところがある。それが的を少し外れているというなら、写真に写るということは、なんだか「切ない」のである。今を生き切ることを身上としている仏弟子の身にしてみれば、身を切られるようなところがある。あれはわたしであって私でない。
夫人に言わせると「お父さん、自意識過剰!」ということなのだが、そう言われた本人にしてみればなにも言われなかったに等しい。写真とは誰が発明したのかは知らないが、神をも畏れぬ所業ではないか。
写真という文明の一端を否定しようもないし、その恩恵を蒙っている。然し、「顔写真」に限って云えば、生活する上で必要最小限でいい。のべつまくなし、手軽にカシャカシャ映しているの図とは喜劇を通り越して悲劇でさえある。

思い出作り?写真は思い出を作りはしない。正確には証明さえしてはいないだろう。今を生きている私とは、過去何年間も掛け替えのない命を生きて来た諸行無常の積み重ねである。積み重ねではあるが、それはあってなきに等しいものであって、アルバムに貯めて置けるような代物ではないだろう。

ということで、亡くなった実の親の写真はないが、冬になると必ず現れる皸や皹は母の体質であり、皮膚の弱さは父の体質であろうし、顔つき、手のかたち、ものの考え方、言い方、生来といってもいいようなその厄介な性格は親譲りであることを歳月を経るとともに実感しているのはどうしたことであろうか。父や母の命、血肉は確かに仏弟子となった今の私の中にある。それを私は疑っていない。写真など取るに足りない所以である。


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生きながらいのち枯れゆくいぼむしり

末枯れて夕べの風の腥き

姉といふ不思議な光り石蕗の花

杳として空は寡黙に蛇穴に

簗崩れ行方も知れぬ雲ばかり

夕暮れは傷つきやすし秋刀魚焼く

暮れてゆく水の流れや崩れ簗

手に受けて月の冷えある林檎かな

臨終の声を限りや紅葉山

落ちてゆく夢の続きや雁のこゑ




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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
酒二合袂に入れて秋の雨  よし

送信が上手くいかなかったと思い、再度送りましたがダブッていたらごめんなさい。
yoshiyoshi
2012/10/28 07:07
小さい子の運動会などでも親はファインダーから見ている感があります。しっかりと子どもを「親の眼」で見て、応援し励ましてほしいと話したことがあります。ほとんど無視されましたが…。

2012/10/29 15:43

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