再生への旅

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zoom RSS 仏道への入口・自己に出会うとき

<<   作成日時 : 2012/10/03 04:21   >>

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菩提寺へ連れ添ふ後の衣更 玉宗

先日御伺いした七尾市海門寺には今年国重要文化財に指定された千手千眼観音が祀られている。法話ではその観音様に関した内容のお話をさせて頂いた。

地蔵様と共に一般的にもよく知られている観音様であるが、「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ている。千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。観音菩薩が千の手を得た謂われとして、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がある。この経の中に置かれた大悲心陀羅尼は現在でも中国や日本の天台宗、禅宗寺院で読誦されている。

観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、三十三の姿に変身すると説かれてい。西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「三十三」という数字はここに由来する、といったような、どこか他人事のような、目出度い解説がインターネットで検索すると出てくる。

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観音様が様々な姿になって衆生を済度されるとされるのは、煩悩の数ほど観音様に出会える機会があるということでもあろう。煩悩が沢山あっていいね、とか、煩悩のままでいいのだよ、といったことを容認しているのではあるまい。これはあくまでも仏様の方からのもの言いであって、衆生である私の実際から云えば、私は私の身と心を以って仏にまみえ、自己の再生を計るしか手立てがないということを言っているのだと思う。

仏に真向かう、それは人それぞれに自己に向かい合い、その命の実相、光と闇、人生の真相に気づく出会いでもあろう。まっさらな、素なる命のままに、自己を虚しくして向こうから照らし出され回向されるものがある。仏の世界に手を合わせるとは本本来そのような次第の「清浄行」ではなかろうか。欲望の上塗りをするものではない筈だ。

自己を空っぽにする。執着を離れる。身を捨て、心を捨てる。何故、そのような手間を取るのか?
自己が自己を呼ぶ。命が命に還る。人間とはそのような手間の掛かる存在なのであり、それは人の命の自ずからなる働きとしか言えない。「自らを知らんと求むるは生きるものの定まれる習いなり」とは、道元禅師の慧眼である。観音様から照らし出される、本来の自己。自己が自己に落ち着く。それだけのことであり、それだけのことができないで迷いを重ねている私がいるのだ。それでいいのかと問われている。

ついに仏道とは自己を習うことに極まると言い切って過言ではあるまい。





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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
角力草嫌と云うても引かれけり  よし
yoshiyoshi
2012/10/03 07:21

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