再生への旅

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zoom RSS 身心一如・坐禅の実際

<<   作成日時 : 2012/10/06 04:09   >>

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今日もまた鵯一羽来たるのみ 玉宗


一週間ほど前から自坊の早朝坐禅に参加している参禅者がいる。60代の女性であるが、眠れない日が続いているそうで、神経症?と診断されて医者から薬を宛がわれているのだという。睡眠導入剤も偶に使っているらしい。話していると普通に会話出来ているし、見た目には籠りがちな人間にも見えない。多少、落ち着きがないといったところか。坐禅の体験は初めてではないらしく、呼吸法がどうのこうのと聞きもしないのに、その難しさを言い出したりする。

毎日、私と二人で坐っているのだが、以前体験したことがあるというわりには坐相が悪く、ぐらついている。結跏趺坐はもちろん、半跏趺坐もまだ満足に組めていない。見かねて、正坐で坐らせてみたりもしている。腹式呼吸とか丹田に気を入れて、などといった難しい説明をする以前に、確かな形を教えなければならないことに遅まきながら気づいた。

要はどっしりと重心を安定させることが大事。それには、背筋を伸ばす。肩の力を抜く。口を閉じて、目を開けて見えるに任せてきょろきょろしない。手に定印を組み業に渡らない。呼吸は鼻で、出るに任せ入るに任せる。この容を保ち続ける。そこに自ずからのぼせ上った血流も下がるだろうし、呼吸も落ち着き、下腹部に気も充実してくる筈である。

そして頭は首の上に置いておけばいい。坐禅は考えたり悩んだり悔やんだりなどといった思いを寄せたり追いかけたり振り解こうとしたする作為ではない。身心があるべきところにありつぶれるだけのことである。

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参禅者に坐禅の指導をするとき、意外とこの微に入り細に入る指導が足らないのではと思う事がある。口頭で説明してそれで終わり、ではなく具体的に手を取り脚を取って形を伝授するべきであろう。そして「坐禅」が身につき、心につく様になるには矢張り積み重ねが欠かせない。

積み重ねは「手段」と言っているに等しいのではないかと批判されるかもしれないが、それは「行」もまた諸行無常だということだ。「命」も「仏性」も諸行無常であり、「手段」といえば全てが「諸行無常の手段」であり、「目的」と言えば全てが「諸行無常の目的」ではないか。「身」といえば全てが「身」であり、「心」といえば全てが「心」ではないか。「悟り」「迷い」「自他」というも、「今」という「形」、自己の様子を言っている。かくのごとく「坐相」「形」とは疎かならないものがあることを肝に銘じてほしい。

宗門の坐禅は「手段」であり「目的」である。「修」であり「証」である。「身」であり「心」である。「威儀即仏法」の端的、正門である。坐る前に決着がついている。ならばこその「形」として人生の一大事因縁なのである。宗門の「坐禅」は執着を絶つという意思表示であり実践である。自己が自己のままで再生できるという奇蹟がここにある。私はこれこそが宗門の信仰の淵源であろうと捉えている次第である。



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密やかに木犀の花聞こえ来ぬ  よし
yoshiyoshi
2012/10/06 08:40

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