再生への旅

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zoom RSS 私にとって俳句が芸術になるとき?

<<   作成日時 : 2012/10/07 04:08   >>

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図体が偶に行き交ふ紅葉狩 玉宗

所謂「俳句第二芸術論争」なるものについて再考してみたい。今更、第二芸術論もないだろうという人もいるだろうし、俳句に興味がなければ第二芸術論って何?という方もおられるだろう。そういうことからも論争自体が俳壇の中だけのものであったことを証明しているのかもしれない。

昭和21年11月。日本国憲法が公布された同じ月に、雑誌「世界」にひとつの評論が発表された。日本のフランス文学文化の研究者・桑原武夫の「第二芸術─現代俳句について」である。短いこの評論が、戦後の俳壇に大きな衝撃を与えたことは事実であり、今も尚、ゾンビのように俳人の油断を吐いて出るお化けのような代物である。
桑原武夫は俳句作品の評価が閉鎖された狭い世界のなかで決定されている、と指摘した。そして「かかるものは、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい」と述べた上で、「これにも「芸術」という言葉を用いるのは言葉の乱用であり、強いて芸術の名を要求するならば、私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、他と区別するがよいと思う。」と評したのである。その共感する場の狭さもまた俳句の本質ではあったのだが、敗戦当時の戦後思潮には古色蒼然たる芸事と見えたであろうことは想像に難くはない。それは今でも変わらない大衆文芸という俳句世界の風景である。

「風」主宰であった故沢木欣一はこれに対して全面否定するという立場ではなく、その論法は稚拙であるとしながらも、戦後から続く俳句界の閉塞性を指摘しているのは真実であると認めている。子規の俳句革新は未だ成されていないという思いが沢木にはあったのではないか。彼は社会に翻弄される俳句界に絶望してはいただろうが、俳句そのもへの信頼は揺らぐことはなかったであろう。戦争に敗れた今こそ真の俳句革新、俳句の文学性を回復するエポックとしなければならない警鐘と捉えたのである。沢木の社会性俳句への切り込みも、風土俳句への傾斜も、俳句の独立性・文学性・芸術性を奪回する歩みであり、第二芸術論争はそんな沢木が捉えた文学的にしてジャーナリスチックな出来事であっただろう。

芸術とは「美を創造するために人間が行った行為により生み出された作品」と定義するとして、顧みて現在、自分が芸術家だと自認している俳人はいるのだろうか?俳句が芸術だなんて、オコガマシイなどと私は思ってはいない。オコガマシイ俳人は目につくが、「俳句」という日本独特の、或いは、日本的なと言っていい「美」があり、「詩」があり、「芸術」があるといってもなんら差し支えないだろう。

俳句も又、俳句的美を創造している。個々の作品が一流であるか二流三流であるかという問題は、俳句が詩であり、芸術であるという本質論とは別のものであろう。言葉の奇跡を信じ、ポエジーという裏窓から世界を俯瞰し創造する。そのような再生作業は俳句という芸事にも可能であることを俳句の歴史が証明している。

芸術に第一とか第二とかいう分類を立てること自体もまた創造的であるとは思えない。それは人間性に第一も第二もないのと同じ混沌だから。俳句もまた詩という混沌なのである。詩の一つの形式なのである。厄介なのは俳句のプレゼンターが、詩人に値しないということがであるのか。俳人であつて詩人でないから胡散臭くなるということなのか。このような偏見は余りに低次元なのかもしれない。然し、俳句という芸事や衆を恃むことには通じているが、謂わば孤独でない詩人、孤独でない芸術家とは一体何だろうかと思わない事もない。

現代の俳句界は「第二芸術論」をクリアーしたのだろうか?そもそも、あれは大した問題ではなかったのだろうか?詩人、芸術家とは権威・偶像を笑っているのが常のように見える。マスコミと商業化の中で踊らされている俳句界でそのような孤独な志といったものがあり得るのだろうか。自己喪失という現代の病巣は俳句世界にも浸透してはいないか。

人のことはどうでもいい。私自身が私自身のこととしてそのような詩人としてのアリバイを自問自答しているだろうか。俳諧で笑うべき現代の権威・偶像とは何であるか?それはもしかしたら、大衆文芸と呼ばれている俳句の本質である「大衆」そのものではないかと私は常々思っている。言い換えれば、私の俳句は新たな権威、新たな月並を纏っているのではないかということだ。

俳句の醍醐味は「新しみ」である。協会の役員に名を連ねるとか、同人であるとかないとか、受賞歴がどうだとかこうだとか、結社や師系がどうだとうか、そのような「あたらしさ」ではない。常に、俳句のポエジーが降り注ぐ無心の器として生きているだろうかといった事の方が私には余程、意地の張り合いがあるというものだ。私にとってはそれだけが俳句に関わっている存在意義となっている。俳句が文芸であるとか、芸術であるとか、芸事であるとか、そのようなことも、実は私にとって大した問題でない。私は自己更新しているだろうか。そのような作品と一体となって生きているだろうか。ひたすら、そのような事を文芸の一大事としてやっていきたい。そのときこそ、私にとって俳句が芸術となりつつ、俳句にとって私が芸術となるときでもあろうと思っている。



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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
人の生き方に勝ち組と負け組みを冠せられても何ら痛痒を感じませぬなぁ。(笑)

鳩吹くやひとそれぞれの指の音   よし
yoshiyoshi
2012/10/07 07:09

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