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zoom RSS 先入観についての一考察 「年齢に応じた初心」

<<   作成日時 : 2012/11/17 05:57   >>

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初冬のもの足りなさを出て歩く 玉宗

「先入観」とは随分と負のイメージを負わされた言葉だと思うことがある。
何事も先入観を持って当たっては真相を見誤るというのが一般的警鐘として受け入れられているようだし、私なども仏道の要諦の一つとして「先入観に縛られない生き方」を人に言いもし、わが身の生き方の指標としている様なところがある。そうではあるが、本当に「先入観」とは負の領域だけに誘う妄想なのであろうか。もしかしたら「先入観」との付き合い方が問題なのかもしれない。

私がこの世に生れ落ちた時「先入観」はあっただろうか。正直なところ解らない。成長するに随って芽生え、身に就いて来た「分別」や「知恵」の所産として「先入観」もまた私の命の一面を出入りしていた事は事実である。その先入観の在り様といえば、結果的に妄想・幻影に過ぎなかったり、反対に的を射ていたり、ときには或る程度当たっていたりというのが実際のところである。
命は自らを繋ぐ本能的なところで「認識を予定」するといった能力を備えているであろうことは予測できる。人間という存在が「素なるいのち」のままでは余りにも危ういことを神様は承知していたのであろう。

文化文明は「想像力」の賜物であろうが、そこにも多少なりとも「先入観」が介在していたのには違いないと思う。忌避すべき先入観といったことも結果論から導かれた矛盾であるのかもしれない。歴史とはその矛盾力の形跡にも見えなくもない。

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ところで仏道が厭うべき「先入観」とは如何なる様子のものか、或いはどのような「先入観」との関わり合い方なのか。
いつものことだが、仏道とは諸行無常をどのように戴き生きて行くかという姿勢を問うている。自己というもその内外を外れるものではない。過去を過去として去らしめ、未来を未来として未だ然らしめる。今を今として承当せしめる。それだけのことと心得ている者にとって「先入観」とは吸う息出る息と同様の諸行無常なるものである。執着するのではなく、当たらず触らず、即かず離れず。命の主人公は「無」なるもののみである。「先入観」に捕われている者にとって「あるがまま」とはほとんど神話に近い。

「人には年齢に応じた初心がある」とは去る禅者の言葉である。
これは結構深いことばであると思う。ここでいう「初心」とは「無知」でではない。人に対し、事にあたり、心に感じ、ものに応じて「自己をむなしく生きよ」ということだろう。年齢に応じた無心があると言っているのである。「先入観」に彩られた「豊かな初心」があるかもしれない。「先入観」に毒された「貧しい初心」があるかもしれない。人様々である。人間とは大概が自分がそれまで生きて来たようにしか生きて行けないものだ。

そうではあるが「再生」の機会はいつも「今」にしかないのも事実であろう。換言すれば「神話」は「今」にしかあり得ない。「初心」が欠かせない所以である。



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