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zoom RSS 冬安居へ向けて

<<   作成日時 : 2012/11/08 04:20   >>

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冬安居夜風に軋むあすなろう 玉宗

僧堂では今月中旬から冬安居の制中に入るところが多い。
弟子が安居している總持寺祖院専門僧堂でも間もなく制中行持が始まろうとしている。制中になれば、大根托鉢、臘八摂心、煤払い大掃除、年末年始の行持、寒中托鉢、涅槃会などの行持が目白押し。夏安居も冬安居も季節に随順した僧堂生活である。
安居とは道環の行持であり、今の精進の生活の継続が日となり月となる。一年となり、春夏秋冬となる。安居は自己の面目であり、正体であり、正法眼蔵であり、迷悟であることを肝に銘じてほしい。覚知があろうとなかろうと、安居は仏弟子の身心なのである。

弟子にとっては初めての冬の僧堂生活である。火の気は格段と少なくなり、気を緩めてはいられない。精進にも自ずから気合いが入ろうと云うものである。又、そうでなくてはならない。甘やかして育ててきた親としては心配の種が尽きないのであるが、一人では成し遂げられない仏道も、安居を同じくする大衆の自律他律の威神力で半途ながらも道を全うさせていただけるものである。

それには慢心を起さず、自己を空しくし、誠実に人や行持に対していかなければならない。通年の行持を未だ体験していない弟子である。その実際は行持に面喰い、行持に引っ張られ、行持に後押しされ、行持に行持せられているようなものである。拘るべき自己などといったものはいつでも、どこでも、その片鱗さえありはしない。仏弟子の自在に遊化する世界とは、そのようななんともない領域である。逃げることも、避けることも、追いかけることもいらない。安居が仏弟子の帰家穏坐の所以である。

安居とは自己に籠ることではない。自己の解放に専念することだ。冬の寒さも行持の厳しさも、解放せんがための機縁であり、方便であり、威儀である。だれにもできることではない。安居できるわが身の幸いを抱いて弟子には精進してほしいと願っている次第である。

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「晩菊」

晩菊や行方も知れぬ風の跡

身を投げて野菊の中に逝くもよし

晩菊に日はまた陰りはじめけり

ゆく秋の声聞くほかはなかりけり

而して妻とふたりや秋の果て

蛇穴にわれは褥に夢があり

紅葉狩いのち惜しむに似たりけり

湯に浸かるごとく焚火の輪に入れり

空稲架に仰ぐ夕星帰らむか

だれよりも妻がよろこぶ烏瓜


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「綿虫」

綿虫のいのちの限りうつろなる

綿虫の尻に罪過のごときもの

綿虫のしつかり生きてかろがろし

もの言はぬ一日綿虫見て終る

綿虫追ふこころ許せる友なくて

奥能登の空の暗さよ雪婆

托鉢の笠に窺ふ初時雨

冬に入る山のやうなる臥処あり

立冬の空極まりて音もなし

今日からは風のあすなろ冬安居





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