再生への旅

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zoom RSS 永光寺坐禅会

<<   作成日時 : 2012/12/10 04:32   >>

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雪安居甍をしづる雪の音 玉宗

羽咋市の洞谷山永光寺の臘八報恩摂心に講師として参加してきた。
永光寺は曹洞宗の太祖と仰ぐ瑩山紹瑾禅師の初開道場でもあり、境内には五老峰と呼ばれる曹洞宗五祖(如浄、道元、懐弉、義介、瑩山)の遺物が収められている古刹。太祖の膝下で坐禅できるというのも法悦至極といった感がある。
監寺老師の弄精魂もあり境内は面目一新し、管理や清掃が行き届き、聖域に相応しい佇まいと山気をただよわせている。毎月坐禅会が開かれているが、今回は「臘八報恩摂心」と銘打って2回目となるものである。雪安居の静けさの中での坐禅会となった。

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10数名の一般参禅者を対象に一時間の講話をさせて戴いた。内容的には先日UPした「参禅法話」と同様の趣旨を述べたつもりであるが、実際のところは脱線気味。
宗門の坐禅の用心・要心を伝えたかったのであるが、さてどうなんだろう。
言わば理屈を一時間述べたわけであるが、理屈で全てが片付くものでもなく、実参実究して頂きたいと念を押したことである。

例えば、坐禅の実際に於いて「もの足りなさ」といったものが纏いつくものである。私の迷悟をなんとかしようといった次元では当然のように「もの足りなさ」が湧くであろうことは想像に難くない。

講話の中でも述べたのであるが、一体、宗門の坐禅は坐中に「何か」を持ち込むものではないのである。命あるがまま、吸う息吐く息の今の事実を担い来たり、担い去るのみなのである。今と云う「諸法実相の端的」に「承当」する。「ものたりなさ」も「ものたり感」も去来の相である。そのような無幻空華に関わることをこそ「妄想」「輪廻転生」とは言うのではなかろうか。坐禅は余分なものを捨て去る清浄行といってもよい。捨ててこそ浮かぶ瀬があるというが、仏法的にこれは事実である。捨て切っていないからこそ浮かばれないのである。

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ものたりないままでなんともない。といったところで落着できる自己であってこそ、諸行無常にぶれない基本姿勢というものである。どっちへどうころんでもなんともない、自己本来の命のままでいる。命を受け入れる。戴き、且つ開け放つ。それ以外の何を自己に加え、或いは差し引き、或いは求めようとするのか。

修行は競争ではない。スポーツではない。本来の自己が自己に出会う事だ。だからこそ厳しいのであり、だかこそ比較を絶しているのであり、だからこそ人の毀誉褒貶の埒外にあるのであり、自慢する事でも、卑下することでもない。信仰を以って生きる、宗教とはそういう次第のものではないのか。

宗門の坐禅も又そのような次元のものであると私は戴いて修している。
身口意の三業に仏印を体し、正身端坐する。威儀あってこその仏法。それこそが坐禅の実際の功夫なのである。坐禅が修証一如とされる所以でもある。

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