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zoom RSS 今日の妄想・地方の時代雑感「俳句の場合」

<<   作成日時 : 2012/12/11 05:13   >>

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雪しんしん血脈つひに仄暗く 玉宗

先日来から如何にも能登らしい冬の天気となっている。
「雪起し」「鰤起し」と呼ばれる北陸特有の冬の雷が鳴り、地元では「お七夜荒れ」と呼ばれる浄土真宗の報恩行事に掛けた気象用語がまかり通っている。時折、吹雪くこともあり、「雪しまく」「風しまく」といった言葉もある。いずれも歳時記に載っている立派な冬の季語である。
俳人協会からは「能登の吟行歳時記」といった冊子も出ている。手本にないので項目も例句も引けないのであるが、俳句が土着の四季や風俗や人事との交流であってみれば、地方それぞれの季語があっても不思議ではない。

ところで、俳諧が雅な都の和歌から飛び出したと云う事は、中央集権的な文学の構図を一掃したと云うことでもあっただろう。それは時代精神の反映でもあっただろう。俳人も又時代の子である。芭蕉も正岡子規も虚子も山頭火も、近代、戦中戦後の俳人も、そのような大雑把な捉え方をして間違ってもいなければ、わるいことでもなかろう。このような言挙げは技術論以前の問題であると笑われるのであろうか。そうでもなかろうと私は思っている。俳句実作以前も以後も、ただ中も、俳人は今を生きている空気を吸っている筈である。主義主張、思想と云うものは肉体を離れてあるものとも思えない。理論武装も作品本意も、どれもこれも「人である」といった抜き難い偏見が私にはある。

地方とか中央とか都とか、俳壇とかサロンとか、協会だとかなんだとか、役員だとかなんだとか、謂わば、今風な装いを凝らした「権威」といったもの、それは俳諧が本来忌み嫌った「雅」とどこが違うのだろうかと、私のような田舎者は敬遠してしまう。俳人は「人でありさえすればいい」といった思いが私にはある。俳句が文学であるかないか、といったことを言いたい訳でもない。如何に況や、権威をや、である。

地方に拘るつもりはない。中央を憧れるつもりもサラサラない。今、ここを生きる。それがそのまま私の俳諧精神というようなものなのだろうと思っている次第。

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「湯たんぽ」

雲低き沖を鱈船戻り来る

鱈汁や夜を荒ぶる風のこゑ

あやとりも叶はず母を死なしめき

湯たんぽや珠のやうなる夢を見る

毛糸玉ころがる母の膝がしら

もの足りぬままに老いたる炭火かな

裏木戸を開ければ吹雪く日本海

薬にも毒にもならず着膨れぬ

漱石忌机の下の真暗がり

籠りたる甍をしづる月の雪

雪しまく沖より神が来るといふ



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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
能登の冬。寒いのは苦手ですが、冬の情景が胸に迫ります。こういう国で育ったら、私の性格は、もう少し重厚になったかもしれません。
志村建世
2012/12/11 23:37

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