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zoom RSS 何のための参禅なのか?!

<<   作成日時 : 2012/12/02 04:17   >>

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ゐるといふただそれだけの寒さかな 玉宗

臘八摂心二日目。

昨日の興禅寺参禅会で参禅者がぼそりと次のようなことを言った。

「何のために参禅したり、坐禅しているのか・・・ちょっと分からなくなりました。」

「発心正しからざれば万行虚し」という先言がある。
これは一般の在家参禅者だけに言挙げされたものでは勿論ない。凡そ、仏道を志さんとする者の陥りがちな過ちを言わんとしている。

凡そ、初心の弁道といったものは指導者へ白紙委任をしなければならない。自己の知見を持ち合わせて初心の弁道と云うこと自体が間違いであるし、もっと云えばおこがましい。

「みづからを求めんと欲するは生きるものの定まれるならひなり」とも云う。道を求めるとはどのような次第と心得ていたのか、或いは、心得違いをしていたのか。身にも心にも自己にも他己にも自問自答し、点検してみるべきであろう。迷っていたのは誰だったのか。何に迷っていたのか。迷うとはどういうことなのか。それでいいのか、よくないのか。もの足りないのは何なのか。物足りなくて何の不都合があるのか、ないのか。

禅といえば「悟り」という構図を切り離せないでいる方がまだ社会にいるというのも不思議なくらいである。「私が悟る」「私の悟り」といったものを絵に描くが如き妄想を持ち合わせてはいけない。敢えて持ちあわすべき心術というのならば、「己をむなしくする」ということの一点に尽きよう。

「わたしが生きている」のではない。「わたしのいのち」なのではない。執着すべき「わたし」といったものが雲散霧消してしまう。敢えて言えばそれを「悟り」と云ってもいいが、ものには順番があるし、本末転倒してはならない。目的と手段は切り離せない、双頭の蛇の如きものである。一体であるからこその不自由さ。一分であるからこその自在さ。迷いを忌避し、悟りを追い求めては元も子もない。

仏道とはそのような実相の自己が自己に落着しぶれない生き方を身にも、心にも決着して行くことである。人の毀誉褒貶や世の喧騒や人生の有為転変の中にいながらにして埒外に逍遥として生き切る自己の人生の芯といったものを育み、捧げて行くいく。そんなこころざし、誓願、信念といったものを抱きながら生きて行く。それこそが信仰者というものであり、仏の方を向いて生きているといったことなのである。社会的に生産的な人間であるかどうか、それは二の次の問題であると言ってよい。

あれもこれも、ではない。それぞれがそれぞれであってなんともない。成道というも、そういう次第ではないのか。禅はそういうかたちで社会貢献し、その文化を還元している。


指導するものもそのような参禅の方向性を過つことのないようにしなければならないことは言うまでもない。指導者としての私の力量が問われている。



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内 容 ニックネーム/日時
不惑の歳に大学院に学び直し「分かるとは何か」を考えました。その時に指導教官に勧められて、何回か近くのお寺で座らせていただきました。夏、ご住職が蚊を袂で払っていたことに驚きました。何故私は参禅したのか?研究の始めに「論文は文学ではない」と諭されて2年。「分かるとは分からなくなることである。」「分かるとは分かり続けることである」〜私の結論のひとつでした。家族に離れて2年間の研究の間の参禅、「分かるとは何か」という研究テーマと参禅、今思えば、私の中で何かが大きく変わったのかもしれません。ありがとうございました。

2012/12/03 09:12

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