再生への旅

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zoom RSS 今日の諸法実相・もの足りないながら足りている命

<<   作成日時 : 2012/12/25 05:06   >>

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なにごともなかりしけふの火を埋む 玉宗


先日、ある信者さんとお話していて気付かされたことがある。
その方は現在一人暮らしをしておられるのだが、かれこれ連れ合いを亡くされて十年は立つ。祥月命日にお経を挙げさせて戴いている。夫亡き後女手ひとつで子供を送り出し、自身は今も輪島の朝市に露店を張っている。毎月、永福寺の地蔵尊縁日のお参りも欠かさない。いつもこちらの方が元気を戴けるような方である。茶飲み話をしているうちに、将来への不安を抱えながらも自らを言い聞かせ、必死に生きている人生が見えて来るのである。そんな彼女の様子を見ていて、ふと人生の実相といったものへ思いが及ぶのだった。

人は人生の歩みの先々で生きて行く不安、心細さを抱くことがあるが、よくよくそのわが命の在り様を点検してみるに、不安や不満などこころの翳りをもちながらも、それなりにちゃんと生かされていることに思い当たるのである。こころの陰りといったものだけではなく、浮足立つような期待感の中にいても同様に、私のいのちはそれらの幻想や妄想を置き去りにして、無かったもののごとく、今を生き伸びていたのである。

ああでもない、こうでもないと思い煩いながらも、いのちは様々な縁を戴き、掻い潜って今にある。人の世の毀誉褒貶の埒外に、わたしを生きているいのちの逞しさ。もの足りないながらもなんともなく有難いわがいのち。
人間というものは諸行無常の人生を重ね、老いるに随って欲もまた少なくなるものである。というより変質するのであろう。嘗て抱いていた不安や期待が雲散霧消していることにこの歳になって気付くのである。恰も、不安を抱きながらもそれがバネとなり生きる力となったような趣さえある。

過ぎてしまえばなにもかもあってなかったような、無きに等しい人生。そうではあるが、掛け替えのないいのちを生きた積み重ねの果てに今の私があるのには違いない。
そのような私にできること。いのちの可能性。可能性を生きるとは、どう考えても今を真っ直ぐ戴き、丁寧に生き切る他にないのである。今という広大にして縦横無尽、そして永遠なるもの。それ以上の何を取って付けようというのか。或いはそれ以外の何が無駄だというのだろうか。

ときにもの足りないながらも、なんともなく充実している今の命。それをまっすぐ戴いて生きていきたいと強く思っている。



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