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zoom RSS 参禅法話 「私の坐禅・坐禅の私」

<<   作成日時 : 2012/12/07 06:15   >>

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水洟や鈴のやうなる星仰ぎ 玉宗


私の坐禅・坐禅の私についてお話ししようと思います。その前に先ず、私たちお坊さんは勿論、皆さん方参禅者と呼ばれる人間とはどのような次第、類、生き方を志向しているのかということを再確認しておくことも大事かと思います。言うまでもなく、私共の生きる姿勢・立ち位置といったものは「仏道」です。参禅というも仏道というも、つまり「学仏道」仏法の実践を学ぶことに間違いありません。その仏道とは如何なるものか?

曹洞宗の高祖と仰がれる道元禅師の言葉に次のようなものがあります。御存じの方も多い事でしょう。

「仏道をならふといふは自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るゝなり。自己を忘るゝといふは萬法に証せらるゝなり。萬法に証せらるゝといふ自己の身心、他己の身心をして脱落せしむるなり。」 (正法眼蔵・現成公案)

仏法が釈尊の成道・悟りが淵源・源流であることは言うまでもありません。仏道とはその「法」と呼ばれる世界の実相を身心に引きうけて生きる実践その学びの道、歩み、道程のことです。
「法」とは何か?それは「命」とは何かと問う事同じであろうと思います。私とは何か?私の実相、それは命とは何か、命の実相とは何かを明らかにすることでなければなりません。そして、命、生きることの意義、意味、といったことも自ずからなる成り行きというものです。法の所在、様子、真相といったことを明らめたのが仏・ブッタと尊称される釈尊であったわけです。

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その「いのち・私のいのち」について自問自答してみましょう。
その「いのち」の実相には「わたし、私」と執着するべき主体があるのかないのか。もしかしたら「いのちという大いなるものを生きている私」ではないのか、といったことを申し上げたい訳です。
「もの」が存在するとはどういうことか。「いのち」に意味はあるのか?私は何のために生まれ、生きて、死んでいくのか?「意味付け」を超越して「生きている事実」があります。

曹洞宗の坐禅とは「宗教・救いとしての威儀・行・かたち」であると私はとらえて居ります。所謂、悟るための手段で止まるといった次元の話ではなく、「自己が自己に参じる・落着する・命ありのままでぶれない」姿であったのです。坐る前に決着がついているのです。私の迷いとか悟りといった問題は問題ですらなかったということ。

坐禅の実践で自得しておられることかと思いますが、正身端坐して作法通りの自己の現場を省みたとき、そこにあるもの、ないもの、あるいはあったりなかったりするものは何でしょうか。
そこには「息を吸ったり吐いたりしている事実」があるばかりではありませんか。それは「諸行無常」の様子といってもよいでしょう。「法の様子」と言ってもいいです。そのような次第の現場、逃げも隠れもできない「今・ここ」があるばかりです。

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「迷い」とは何でしょうか?
私に云わせて戴けるのならば、「迷い」とは「ありのままなる、素なる今のいのちの事実、様子を真っ直ぐに受け入れない、戴かないことです。「見解」や「欲望」や「思い」といった夢幻空華に身心を引き摺られ、振り回され、輪廻転生することです。「仏道」はそれでいいのかと諭しているのです。どう生きても一度きりの、そして自業自得のはかない命をどう戴き、どう生きようとしているのか。

仏道の答え、その基本・正門として宗門の「坐禅」が提示されているのです。坐禅の様子、坐相、功夫のまっただ中にその答えが用意され、実践されています。
坐禅のあのかたちと内実は「身・口・意」の三業に仏印を体現しいるのです。業に振り回されず、今のいのちの事実を真っ直ぐ戴き、真っ直ぐ施す。それはそのまま諸行無常・法のあり様に随うているのであり、縁起の法という自己を取り巻き、自己を自己たらしめている世界の真相にかなっているのです。

私がどのような姿勢で生きていくのかが問われ試されています。 生きている意味は自分が作り出し、見つけ出し、目指して行くべきもの。いのちを頂き、そして、いのちを施して生きていく、それが人生。迷っても、迷わなくても自己は自己を生き抜くしかありませんが、であれば尚更のこと、どっちへどうころんでもなんともない命に目覚めたいものではあります。

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繰り返しになりますが、坐禅の様子、坐相、功夫のまっただ中にその答えが用意され、実践されています。
坐禅のあのかたちと内実は「身・口・意」の三業に仏印を体現しいるのです。業に振り回されず、今のいのちの事実を真っ直ぐ戴き、真っ直ぐ施す。それはそのまま諸行無常・法のあり様に随うているのであり、縁起の法にかなっているのです。

釈尊の遺言でもある「自灯明・法灯明」は仏道の初心にして晩心であり、通心でもあるのです。真実は自己の中にある。仏道が自己をならふ所以です。
「今、ここに息をしている、いのちという大いなる事実」それを何と呼ぼうが構いませんが「いのち」の実相には執着するべき主体のあり様がないのです。自己とはささやかながらも途轍もないもの。命とは大いなるものと一体であるからこその一部であり、自在も不自由もそのような事実の様子であったわけです。

「身心脱落」とは分別・知見・理屈・欲望・妄想・身や心の贔屓癖を超えた領域に跳び出さなければなりません。
そのような脱落底の人にしてはじめて「修証一如」を云いもし、忘れもすることができるのでしょう。
「坐禅」が苦楽を超える究極の落着「安楽の法門・仏法」である為にはそのような「威儀」が欠かせない所以でもあるのです。





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