再生への旅

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zoom RSS 釈尊成道会

<<   作成日時 : 2012/12/08 04:34   >>

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手に享くる成道粥を泪ほど 玉宗

釈尊成道の古を慕って十二月八日に行われる法要を釈尊成道会という。
僧堂では一日から報恩接心が修行され坐禅一色の弁道となっていた。世の中は師走の繁忙期であるが、修行僧は腰が抜けるほど坐ることができる勿体なくも有難い時間ではある。言い方を換えれば、仏弟子の面目を施すことが出来る絶好の機会。

七日は夜通し坐り、日付が変わる八日夜半、大開静。法堂に上り、小参問答。終って漸く打眠できる。その日の起床は大放参で、年に一度、天下御免の寝坊が出来る。朝粥は成道粥の故事に習って「乳粥」を作る僧堂もある。輪島市内の寺院では「小豆粥」を作り、参拝者にもふるまわれる。それぞれ手のひらにひと匙分けて貰い、舐めるようにして戴くのである。

明けて日中に正当成道会諷経。引き続き、九日夜に二祖慧可大師報恩断臂接心。

一連の報恩行持が済むと僧堂にも人の気配が戻ってくる。その後、大掃除となり本格的な冬用意。文字通り、走り回ることになる師走年末への助走である。

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釈尊の成道の星の下、これまでどれだけの仏弟子がその星を仰いだことだろうと思う。

「上堂。釈迦牟尼仏大和尚、菩提樹下に在りて、金剛座に坐して、見明星悟道して云く、明星出現の時、我と大地有情と同時成道」

「我と大地有情と同時成道」が眼目であることは言うまでもない。

「悟」も「迷」も取るに足りない宗門の坐禅。坐る前に決着しているに越したことはないが、「迷悟」と共にあり、大地有情と共にある自己の正体を晦まさないことが一義的に求められる。成道が同時でなければならない所以であろう。

「多處添些子 少處減些子」

私のようなものが「悟った」としても未だ迷悟の分際である。生死を忌避できる訳でもない。いわんや迷っている人間をや。そうではあるが、多や少と一体であるところの些子でもあることを覚るに越したことはない。
吐く息、吸う息、一瞬一瞬が天地とともにあるという事実がある。悟っても、迷っても、私がいてもいなくても、もの足りないままでもの足りている、なんともなくて有り難い、そのような「今、ここ」がある。自己が自己に落ち着く以外に修行の本懐はない。




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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
かつて声楽をやっていた妻に言われます。「腹式呼吸ができないんじゃない」と。確かに、私は呼吸が浅く、いつも緊張しています。着ぶくれて吸う息吐く息整はず 

2012/12/08 19:06

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