再生への旅

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zoom RSS いつも初めてのいのち

<<   作成日時 : 2013/01/20 04:51   >>

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生れて以来身に覚えなき寒さなり 玉宗

今日は大寒である。
能登の冬の寒さ、厳しさは例年これからが本番と云ってよい。そんな能登に住んで四半世紀。毎年欠かさず寒行托鉢を続けてきた。若さに任せて馬力で押し通した観があるものの、実際のところは決して好き好んでしている訳でもなかった。いつも「行」の本質・面目を高らかに謳い上げているのだが、理想家にしてロマンチストの市堀玉宗の実体は結構生々しいリアリストでもある。できれば寒いさなかの托鉢など御免蒙りたいという怠け心がないことはない。寒中に何度かは歩きたくないという思いが湧く。

思えば、お寺の行持は毎日同じことの繰り返しといってもよい。一見すると十年一日、百年一日、千年一日といったところがある。避けることのできない寒さの中を、いつもと同じ道を、いつもと同じように鈴を振って、いつもと同じお経を唱えながら只あるく。仏道とは毎日同じことを実践することなのかと思いたくなる。何が面白くてお坊さんをしているのだろう、私は。といった具合である。

これを妄想とは言う。
仏道は妄想の話ではない。いのちの戴き方を教えている。凡夫ながらも、真っ直ぐ自己のいのちを戴き、そして施す。唯一無二にして、諸行無常なるいのちの実相を見極めなければ、多いに迷うこと請け合いである。昨日と同じことのつまらなさを嘆く愚かさ。過去とは何か?未来とは何か?などと問う前に「今の実相」をこそ自問自答するべきなのだろう。

いのちは過去や未来とは似て非なる「今」を生きている。因果歴然として、且つ、前後際断たる、そのようないつも初めての「今」があるばかりではないか。無私にして、誤魔化しが利かず、そして真に自由自在な世界。拘るべき「いつもと同じわたし」といった妄想こそが究め尽くしのつまらなさではなかろうか。
自己は妄想以前以後のなんともない「いのちの事実・今」を生きている。それ以外の何を自己に求めようとするのか。それを何度でも、身にも、心にも、肝にも銘じて生きていきたい。

「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って 学びなさい。」
(マハトマ・ガンジー)


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「大寒」

寒喰の中の一人は僧らしき

薬喰けものの如き汗掻いて

大寒や孫の手探すことをして

大寒のかんばせあるが恥しき

夜逃げせし家の氷柱を貰ひけり

冬の海きのふへ帰る術もなく

狐火を見て来し母の胡乱なる

雪女見て来し父の酒臭き

薬喰平らげてこの虚しさよ

この寒さなんの咎かと思ひけり





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