再生への旅

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zoom RSS 今日の以心伝心・体罰と暴力について・その1「問題の所在」

<<   作成日時 : 2013/01/24 00:07   >>

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鷹を飼ひ一人で生きてゆくつもり 玉宗

体育クラブ活動顧問の指導が原因で一人の生徒が自殺で亡くなった。その後の学校関係者への市長の対応へ賛否両論、どちらかと云えば否定的な世論に見受けられる。体育指導のあり方、教師、教育委員会、当該学校への入試制度のあり方などが検証されようとしている。遺族は顧問を告訴し、文部科学省は今回の事件に当たって、如何なる場合でも体罰は認められないという通達をしたという。又、市長の提言する教育改革が皮相的なものであり、根本的解決にはならないといった識者の指摘もある。問題が人間の根本的なものであることに意義はない。然し、根本的な問題の解決、或いは問題の根本とは何なのかといったことに関して当事者はどっちを向いているのだろうかと他人事とも思えぬところがある。

体罰を容認している彼のヨットスクール校長は自殺した子供にも原因があるようなことを指摘していた。確かに自殺は本人の最終的な、已むに已まれぬ判断の為したところのものではあろう。顧問が直接手を下した訳でもない。然し、だれも自分に変わって体罰の痛みを代っては貰えなかった彼の苦悩を、件の校長は取るに足らないと言っているようにも私には聞こえたものだ。
痛みの感じ方も人様々ではある。殴られて指導と受け取る者もいよう。殴られて許し難い暴力と受け取る者もいよう。父兄や生徒の中には顧問の指導や実績を評価し、弁護している人も少なくないようだ。これはいったい教育というものの、如何なる実体を語っているものなのだろうかと、私などは思う。

敢えて言うが、自殺とは人生の敗北かもしれない。その責任の所在を云々するのも畢竟生きている者の言い草である。無念のうちに息を引き取った当人は二度と再生する機会はない。その断絶、絶望の深さは他殺となんら変わりはない。自殺へと彼を追い遣った原因がない筈がない。人間の死とは「すべて他殺である」とも云えないか。我々は知らず知らずのうちに多くのいのちを抹殺して、生存している。家族も先生も隣人も、社会という関係性から免れ難い存在である。そのような生存の罪深さ、あり難さに思い至らない人間が、教育やしつけという理想の下に自己増殖、自己催眠、自己を偶像化してはいないか?教育とはなにか?それは自己欺瞞でなければ幸いである。それが子供を楯にした自己の償いでなければ幸いである。

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生きることの逞しさを育てることもまた教育の範疇に属するものだろう。生きる逞しさとは何か?それは目の前の勝ち負けに生き残る才能を身につけることだろうか?人生には負けるが勝ちという不思議なところもある。
また、人生の教育は学校の先生だけの専売特許ではない。そして、政治家や行政や父兄が口を出してはならないものでもなかろう。様々な関わりに中で生きている人間。その教育とはまたひとりひとりがその置かれた立場で顧みられるものでなくてはならない。換言すれば、現在の先生達の現場では余りに人生教育への切り込みすぎているのではないのかと言いたくもなったりする。先生が頑張りすぎてはいないか?それもこれも、教育の現場から宗教心が排除された結果だとは安易にもの申したくはないが、体罰やいじめなど教育現場の荒廃を先生だけが収拾できるのだろうかと言いたい。

教育とは具体的で、慎重で、豊かで、深く、愛情に溢れていなければならない。そしてまた、自己が掛けがえのないいのちであることの、絶対的尊厳を持っていると云う意味で、人は全て自己自身に厳しくなければならない。それは外から強制的に与えられるものではないが、放って置いて身につくようなものでもない。ましてそれは、体罰という力関係の上での話ではない。なにごとにも限度というものがあろう。身のほど、心のほどを知るのが教育のひとつの答ではないのか。人を思い通りに変えることはできないだろうが、不可能ではないかもしれない。というより、可変可能な領域があろうというものだ。現実はそのように見える。

いのちの尊厳は勝ち負けや教育、倫理などといった範疇を越えているというのがお坊さんである私の見解だ。私はいつも「いのちの話し」をしたい。学校教育は限りなく百点に近ければ良しとするのだろうが、仏道は零点か満点しかないのである。糸瓜は糸瓜で満点。ゴキブリはゴキブリで満点。花は花で満点。ブスはブスで満点。そのような自己を肯わず、いのちを恨む愚かさを零点とは言うのである。
そのような煩悩の地平線上で大概の人間は教育を論じているのではないか。
いのち生きることに意義あらしめるものは何か?逆に意義なからしめるものは何か?すべてはいのちの可能性の話である。いのちは当人や指導者が絶望する以上に根深く、且つ繊細なものだ。問題も又当然のように根深く、繊細だ。人はいのちの可能性に生き、夢を持ち、絶望する動物なのである。死は当に可能性の断絶である。教育とは畢竟、可能性を育むものであろうと思う。  <つづく>



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