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zoom RSS 体罰と暴力について・その2「仏道の威儀」

<<   作成日時 : 2013/01/25 04:59   >>

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しぐれ雲らしき暗さに泣き急ぐ 玉宗

仏道は身と心の均衡を保ち、一如の生き方を志向する。そこに宗教的救済、安心といったものを具現しようとする身心学道でもあろう。身は心の容であり、心が収まってこその身である。容が崩れれば心も崩れ、心が放埓ならば容は態を成さない。

そのような理想を掲げ実践に明け暮れる僧堂生活に於いて、所謂「体罰」といったものがないとは言えない。嘗て私の耳目しているだけでも何度か傷害沙汰になった事例もある。体制内の事として収束するのが常のようだが、あくまで当事者が和解しているようだ。言わばパワーハラスメントといってよかろう。言葉によるもの、或いは無視といった関わり方、或いは無理難題を課すといった極めて幼稚な、生々しい煩悩丸出しのものから様々である。僧堂もまた人並な、生身の人間が暮らす現場である。集団心理といった加害者本人も予想だにしていなかったいじめ体質が生れる危険性を孕んでいる。人ごとのように述べているが全て私自身に起こった経験の内省からの自戒である。

「和合僧」という理想を掲げながらも、その実際は中々に生々しい現場であると言ってよかろう。何故か?!自己を飾るものが無くなるからである。良くも悪くも、世間智とか世間の肩書と言ったものがすべて棚上げされるからであろう。空っぽにならなければ充たされない仏法の所以でもある。勢い、素の人間性が顔を表す。自己を律しきれない半端ものに限って集団心理を笠に着る。仏道に於いてあってはならない煩悩が姿形を変えて立ち現われる。魔が差す危険性さえ無しとは言えない。

それもこれも僧堂という仏弟子養成機関の避けては通れない社会性なのであろう。聖人君子ばかりが修行をしている訳でもない。人間臭い者同士が曲がりなりにも仏の方を向いて精進していこうとするのが尊いのである。然し、だからと言って体罰が許される筈もなく、暴力を侵したものは破戒と二重の咎を侵したことになる。即刻下山させられることが多かろう。

僧堂の現場は修行の徳目でもある「忍」を学ぶ現場でもある。毀誉褒貶の埒外に逍遥と生きることのできる力量を自ら養い、耕さなければならない。身と心の受け身を学ぶのである。身と心の置きどころを学ぶのである。生涯を共に暮らすわけでもない仲間や先輩のいじめや体罰や指導も、全て弱きわが身の肥しになると心得るにも諸行無常を受け入れる力量がいる。

仏道は自己を習ふの道である。なにがあってもなんともない自己を確立する、自己を決着する、落着する。人をどうのうこうのしている暇などないし、本来そのような筋合いのものでもなかろう。体罰もなんだが、罰が罰にならないといったこともこの世界では十分にあり得る。「忍の徳たること自戒苦行も及ばず」とも諭される世界である。「死んで生きよ」と公按を強いられる世界でもある。体罰なんど屁でもない、といった気概がないに越したことはないが、それは体罰があってよいと云う専権事項にはならない。

仏弟子にとって体罰・暴力を否定することは言うに及ばない。それ以上に唾棄すべきは道元禅師が嫌った「名聞利養」ではなかろうかと私などは捉えている。自己の煩悩を棚上げするどころではない。自己を祭壇に祀りあげるの愚を犯してはいないか。権威を笠にきて生きてはいないか。素なるいのちのままの自己を蔑ろにしてはいないか。そのような次第の点検の方が余程一大事であってほしいと、私などは思っている。<つづく>


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「侘助」

母がゐてあかるき冬の障子かな

わびすけやお辞儀ができる子となりぬ

海見えて風も凄まじ寒椿

あらかたは啄ばまれたる実南天

日のあたるところにいつも青木の実

橙の背伸びをしても届かざる

鵯に狙われてゐる木守柿

水仙や空を欺くものもなし

不器用に生きて幸せ藪柑子

龍の玉いつかは会へるかもしれぬ

埋火や明日は素直にならうと思ふ







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