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zoom RSS 今日の妄想・俳句賞についての偏見的考察

<<   作成日時 : 2013/01/28 05:16   >>

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雲中に冬日うつろふ椿かな 玉宗

俳句の世界には御多聞に洩れず、様々な賞が用意されている。

結社、俳句雑誌、協会、俳句大会、など星の数ほどあるかもしれない。どれに権威があるかないかは、俳人の臭覚で嗅ぎ分けているようである。俳人だけではないが、表現者というものはつくづく「賞」と名のつくものに虜にされている動物のようである。「賞」を狙う、注目されたい、自己顕示欲、それは一概に過ったことでもない。作品のクオリテイーを上げるために識者や権威の評価・裏書き、人の批評眼に晒されることはそれなりに意味があろう。褒められて才能が伸びることも大いにあり得るし、作品は注目されてなんぼのものである、といった世界でもあろうことは想像に難くない。

受賞の経緯といったものもつまるところ選者の好みであり、それでいいと云う事になっている。万人が嗜好する作品といったものもあるようでないようなものだ。すぐれた作品、作者というものはそれらの境界や雑音を見事にクリアーしているだろうし、そのような作品や作者に出会いたいとは誰もが思っているだろう。大衆文学であるないに関わらず、真に文学的価値のあるものが「賞」を受けるのは当然のことであろう。俳句の世界も又、実力がものを言う世界である。と、思いたい。

それにしても、私が俳壇や俳人にイマひとつ馴染めないのはなぜだろう。

誰に選んでもらったとか、なんとか大会の選者であるとか、協会の役員であるとか、何々賞を貰っているとか、頼まれもしないのに自ら自己喧伝ばかりに汲々としている樣に見えたり、俳諧に上下貴賎なしとは言いながらも意外に出自や系譜に拘っているのではないのかと思ったりするだけで拒否反応が起きる。
又、廻りの人間もそういったことに先ず注目し、果てはそのような眼差しで作品や作者に対しているのではないのかと、ゲスの勘繰りから抜け出せないでいる。

そこからはなんとなく権威主義の匂いさえする。私の勘違いでなければ、俳諧ってそんなもんじゃないだろう、といった開き直りに似た偏見のようなものがある。それは俳諧が一番唾棄すべきものではないのか。現代俳句、現代俳壇のサロン化、或いは大衆迎合化、或いは組織化、常識化。俳諧が嗤うべきものは何であったのか?俳諧がいのちを削るべきは何であったのか?

然し、ここに至って、もしかしたら、俳諧なんて、そんなもんじゃなかろうかとさえ思いたくもなる。「賞」がどうのこうのという話も、思えば他愛もない事である。本人が喜ぶほど社会に貢献している訳でもなかろうし、目くじら立てるような害を起こしたとも思えない。優れた作品だけが残ればいい話である。極端な話し、作者なんかどうでもいいのだ。そういうことであれば私の僻みも俳人という人間への個人的偏見であり、俳句そのものではないようだ。言わば俳句以前ってところか。私の中にある否定すべき俳人像、人間像。そのような曇った目で相手を見ているのは私の方かもしれない。

俳句の話しとしないまでも、私にはどうも徒党を組んだり、肩書きを笠に着られたり、権威を振りかざすのが我慢ならないと言ったところがある。修行が足りないと云われてもよい。まあ、私のような人間は誰も相手にしないであろうことも十二分に予想されることではあるから、賞とか肩書きとは縁遠い人間の僻みと受け取って貰ってもいい。御目出度いのは私の方かもしれない可能性はあるのだから。

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「寒椿」

寒椿頬つぺた赤くして帰る

眉毛ほどの雪のせてをり寒椿

寒椿あつけらかんと雪が止む

雨降れば雨に沈もる寒椿

寒椿処女懐胎の恨みあり

寒椿言ひたいことのあるやうな

寒椿別れ話の縺れより

寒椿ほどの冷めたる愛なりき

寒椿子の手を包む大きな手




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