再生への旅

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zoom RSS 坐禅が楽しくなる心得

<<   作成日時 : 2013/02/14 05:01   >>

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雲中に日も鬱々と冴え返る 玉宗

板橋興宗禅師の著書『良寛さんと道元禅師・生きる極意』光雲社・1986年初版発行を読み返してみた。今から約30年前の文章が纏められている。禅師様がまだ大本山總持寺の単頭職であったころの教化学大会での発表要旨や、總持寺月刊誌「跳龍」への寄稿文から自坊や大乗寺住職になられた頃の寺報の文章など、脂の乗り切った頃の禅師様の勢いを彷彿とさせる文章が揃っていることに感慨深い。今でもそうだが、禅師様の文章は分かりやすい。御自分の中で噛み砕き、咀嚼した言葉の味わいといったものを詠み手に渡す才能に長けているといった感が私などにはある。

その中に「坐禅が楽しくなる心得」とのタイトルの文章があるので勝手に掲載させて戴く。大本山總持寺月刊誌「跳龍」昭和50年4月号に掲載されたものである。禅師様が50代半ばを過ぎた頃の文章である。今の私と同年の頃と思って戴いてよい。比べるなどといったことは僭越極まりないのであるが、如何に私の文章が平生分かりにくいのかと皆さんにも分かって頂きたい。その禅の境涯も知れると云うものであるが、まあそれも一興である。

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坐禅が楽しくなる心得

 からだと頭から力を抜いて坐れ


<坐禅はまず背すじをピンと伸ばすこと。こころもち腰椎を前につき出すようにするとよい。下半身がドカッと安定する「すわり」のコツをのみこむことが大切である。
次に身体からも頭からも力をぬいてゆったりと坐る。コチコチに固く緊張してはいけない。だれでも最初は足が痛いのが当然であるから心配に及ばない。痛みに耐えるのが目的でないから坐禅中、足を組み変えても仕方あるまい。からだをモジモジさせたために警策を打たれれば、打つ者には勝手に打たせておいて合掌するがよい。打たれたことを気にしないで肩の痛さに親しむ工夫がのぞましい。

 雑念妄想には取り合わないこと

静かに坐っていると、不思議にいろいろさまざまなことが浮かんで来る。へいぜいは考えたこともない、とてつもないことが走馬灯の如くに出没するものである。それは頭の中にメタンガスが発生するようなもので気にすることはない。
しかし、これを追いかけていろいろ思いをめぐらすことは出来るだけ止めた方がよい。とにかくあまり気にせず取りあわないことである。身も心も開け放して、なりゆきにまかせておくのが坐禅の要領である。そうすると自然にからだ全体に充実感をおぼえ、心が柔和にほどけ、豊かになる。

 理屈なしの生きかた

理屈なんかどうでもよい、といって強情をはるのではない。理屈なしの行為はあらゆる教義の究極である。これから理屈なしの生活を覚え訓練するのではない。われわれは生まれてこのかた理屈なしに現に生きているのである。
今、自分の息づいている呼吸をみるがよい。まことにスムーズで快調にフル運転しているではないか。いろいろ理屈をつけてその理屈通りの呼吸をしてみるがよい。息苦しくてものn五分も続くまい。
今、目の前にある壁や畳や木々は、自分から目に写そうと思っているから見えるのだろうか。全く理屈なしに見えている、写っている。風の音、電車の音、子どもたちの声、これを聞こうとも聞くまいとも思わないのに、実に順調にわが身に直接あるではないか。
われわれのあらゆる感覚器官はもちろん、身体全体はもことにすばらしい自由自在の活動体である。この本来的な生き方をジカに生きてゆくのを仏道という。
 われわれは、このぐくあたりまえな自分の真相を見すごして、これ以外に何かすばらしい生き方があるような錯覚をしてあれこれ迷いつづけているのが現状である。ご飯を食べながら、空腹をみたす妙薬をさがし、うろたえているようなものである。人はだれでも幸福な日ぐらしを念願し、日夜努力をかさねているが、ああでもない、こうでもないと善し悪しを言いつつ遂には心残りのまま息をひきとってしまう。人間の本当の「しあわせ」のありかを知らないから満足感を感受できないまま終ってしまう。
  われわれの生活や行動に理屈がぶらさがっていると、いかにもギコチない。もう一人の自分が、いつもよしあしを批判しているので、やっていることに満足ということがない。いかに最高の恋愛論であれ、その理論通りに恋人と愛のささやきを交していたとしたら、なんと味気ないことだろう。 
 仏道はジカにものを見、ジカにものを聞き、ジkになやみ、ジカによろこぶ生地のままに生きることである。たとえいかなる教義を知っていたにしても消化しつくされて、理屈らしいものがみじんもない生き方が最高である。いわば首から上を自分から使わぬ生活である。坐るときには「ただ」ジカに坐る。動くときには、なにごころなく「ただ」動く。ごくあたりまえの平常心を仏道という。これを宗門では只管打坐ともいう。> 以下省略。


このような具合である。
どうだろう。私にはここにある、禅師様のその後の僧堂人生に於いてもぶれなかった仏道への信念がありありと見えて来るのである。実に信念の禅者であると言っても間違いあるまい。





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