再生への旅

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zoom RSS 涅槃の一風景

<<   作成日時 : 2013/02/17 05:07   >>

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鳥が来てもの言ひたげや涅槃像 玉宗

二月は涅槃月でもある。
先日、ちょっとした用件で家族でお寺のアルバムを見ることになった。夫人の五十年以上も前の写真には思わず笑ってしまったことである。昭和30年代の時代を御存知の方には想像できるであろうが、まだ日本全体が田舎めいた、仄々とした雰囲気、豊かさの中で生きていた頃である。夫人が気の強い餓鬼大将的存在であったことが判明した。そして小さいころから猫と一緒に暮らしていたことも。

それにしても、アルバムの中のほとんどの人が亡くなっていることに気付き茫然とする。
今、地球上に生きている人間の数より、人類発生以来の亡くなった者たちの数が遥かに多い。私の縁者だけでも生きているものより亡くなっていった者が圧倒的に多い事実。あの世もまた賑やかなことではあろう。生と死とは何と遥かで身近な関係であろうと実感する。生と死は他人事のようになんともなくて、わがことのように気なってしょうがない。

人間一代の寿命が限りあることは現前の事実でだれも疑うことはしない。それにしても、私の「思い」も「肉体」も、「内」も「外」も、それは夢幻のような、移り行く、当てにならない代物である。
人間が問うて已まない命題。永遠なるものとは何か?確かなものとは何か?

限りあるいのちが断絶しながらも、引き継ごうとしているものがあるのかないのか。生を生たらしめ、死を死たらしめ、有を有たらしめ、無を無たらしめ、全を全たらしめ、一を一たらしめる、そのような「存在性・はたらき・法爾・自然なるもの」がある。「いのち」はそのような永遠にして、確かななるものと共にあってほしい。それが私の信仰でなければならない。

私がいてもいなくても、意味が有ってもなくても、有情無情、なんともなくてあり難い、煩悩丸ごと呑みこみ、吐きだす涅槃の一風景。いのちはいのちを越えようとすることによって辛うじていのち足り得る。畢竟それ以外に、いのちに望むことはないようにも思える。



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「草萌ゆる」

風はまだわがもの貌に榛の花

まんさくの花といふにはに滑稽な

望楼の沖はアリラン藪椿

はだれ山越えて薬を売りに来る

安吾忌や路地に月日の吹き溜まり

草萌ゆるわが身色褪せゐたりけり

草萌ゆるまぶしき日々の始まりぬ

風船の空に引かれて土手の上

春浅き庭に鳥来て去りにけり

魚は氷に上りにんげん已めたがる





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時

雨のなか猫の恋とは労しき   よし

yoshiyoshi
2013/02/17 06:45
去り逝きし 人らの笑みに 抱かれて
健やかに病み 健やかに去らまほし
貧女の一灯
2013/02/17 16:42

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