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zoom RSS 極楽の文学考・虚子という闇

<<   作成日時 : 2013/02/23 05:00   >>

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さよならがうすらひほどの光りなら 玉宗

高浜虚子は、嘗て「俳句は極楽の文学である」と言ってのけた。

<如何に窮乏の生活に居ても、如何に病苦に悩んでいても、一たび心を花鳥風月に寄することによってその生活苦を忘れ病苦を忘れ、たとい一瞬時といえども極楽の境に心を置くことが出来る。俳句は極楽の文学という所以である。 「俳句への道」>

虚子の言う「極楽」とは如何にも曖昧模糊としているが、朧なるが虚子の個性であってみれば今更取りつく島もないのかもしれない。このような言挙げをする虚子にはまず「人間への絶望があった」のだと言いたくなる。「社会」ではなく、「人間への見切り」「闇」のようなもの。それが虚子自身の自己反映だったのかどうか、判然としないところがまた虚子らしい。なにもかも他人事のような、虚子にはそんな風情がある。「絶望」さへも他人事のように曖昧である。それほどにまで虚子の「闇」は深かったのかとも思いたくなる。

その一方「人事・世事」に対する執拗さ、粘り、抜け目なさといった才能に溺れている様なところもある。それも「絶望の反転」と見えなくもない。そのような人間の言う「極楽」とは如何にも宗教臭い。「花鳥諷詠」も「写生」も虚子と云う教祖が言いだした「お題目」である。それは彼の生き方そのものであっただろう。
関東大震災も、秋桜子のホトトギス離脱も、新興俳句も、戦争も、第二芸術論も、虚子の生き方を揺さぶり変える事はなかった。それはおそらく若き日々に魂に刻印されたものの深さを証明している。

「花鳥諷詠」によって自らの内なる空しさを埋めてゆく。文学は畢竟自分を語る事ではなかった。虚子には子規によって眼を開かれた文芸への確信があった。そして、虚子の人生もまたそれによって救われたのである。
虚子にある「狎れ」のようなもの、あれは所謂「妙好人」の「図々しさ」と通底しているといってよかろう。そこには人間らしさへの信頼が希薄である。現実を見る眼差しが如何にも虚ろである。虚子には畏れるものがなかった。それこそが「虚子の闇」の正体かもしれない。

虚子が唯一畏れていたもの。それは彼自身であろうというのが私の独断である。

(参照・「虚子の青春」http://72463743.at.webry.info/200909/article_1.html)


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「やどかり」

父のために採つてみせたる烏貝

殻を出てあわてふためくがうなかな

やどかりや耳を塞げば海のこゑ

わらんべに覗かれてゐるがうなかな

蛤に遅れをとりしさざえかな

便りせず恋路が浜の桜貝

僧が来て覗いてゐたる雪解川

春炬燵空が恋しくなりにけり

木の芽まだ夢に跼まり眠るかたち

この頃の雨にやつれて残る雪

落椿都の堰に閊えをり

なけなしの知恵絞りをる木の芽かな

東風吹いて猫の狼藉始まりぬ

また同じ愚痴聞いてゐる春火鉢





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