再生への旅

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zoom RSS 生きるも死ぬもお世話になります

<<   作成日時 : 2013/02/24 04:59   >>

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合せたる手にも涅槃の寒さあり 玉宗

先日、お寺にお参りに来た信者さんと話したこと。
昨年から母親の介護をするようになり、あらためて人生の真相に気付かされたという。老齢からくる体の不自由と認知症もすすみ介護施設に入れた。自営業をしている自分達家族では面倒見切れないとの決断からである。人様のお世話になっている母親を見て、人間とは生まれる時も、老いても人の世話になっていることを痛感させられたという。

生老病死の人生の、どれをとっても人間はだれかの世話や支えを受けているには違いない。若く元気なころは、一人で生まれ生きているような生意気盛りでもあるが、それは本人がそう錯覚しているだけの話しで、存在の事実とは私の思い込みを越えて様々な「縁」によって存在たり得ている。そのように世界を捉えることの方が余程、理にかなっているし、実感に添うものであろう。

生きるとは畢竟、どうしたって縁を生きることから免れられない。恩知らずにはなりたくないが、恩着せがましいのもどうもならん。どちらも仏道からは逸れていると思う。余計なものがくっついている。清浄ではない。世間でも「お互い様」といった相手を気遣い、自らを空しくする挨拶がある。恩を感じるとは当然ながら受けた者の言葉である。自分にないもの、できないことに対して受けたときにそれは強く感じるものである。それは私という人間の姿を再認識させてくれることだろう。

いのちは確かに授かりものである。私がどこからか引っ張ったり盗んできたものではない。そうでありつつ、いのちはいつも授かってばかりで成り立ってはいない。自らも何がしかの施しをしているのが実際であろう。どんな貪りの強い下らない人間でさえ、何かを施して存在している。恩知らずな人間も、恩着せがましい人間も、どちらも間違っている。

恩は私が一方的に感じるものであり、一方的に人に施すものであり、ひとの人生の可能性を萎縮させるような筋合いのものではなかろう。自他の見解に亘っているうちはそのような落し穴が口を開けている。人はだれもが自分並のいのちを生きている。自分並の可能性を試している。どこまでも自己ぎりの世界である。いったい誰がいのちの絶対性を比べることが出来るというのか。

恩知らずも、恩着せがましさも、「縁や支え合い」がまるで道徳や倫理界隈の話しだと妄想しているところからくる。「縁」は事実である。そのような「縁」に生きるのが仏道であろう。傲慢になることなく、卑屈になることもなく、いのち真っ直ぐ生きていたい。老いても、病んでも、死ぬ時も、大きな顔をして世話になっていたいものではある。あたり前に生きるとは実に並々ならぬことではあったのである。

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「蕗の芽」

手遊びに摘みし蕗の芽手に余る

ポケツトに詩の断片と蕗の芽と

蕗味噌を好み人後に甘んずる

まるで大地の脇の下より蕗の薹

引き抜けば割りとかさばる水菜なる

之繞が上手く書けざる木の芽かな

合せたる手にも涅槃の寒さあり

またの名を娑婆捨山の春霞

青饅や噂話しがしたくなり

ふきのたうまぶしき空の下にかな

猫柳あしたが少しづつ見えて






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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
一年一年、年齢を重ねるにつれて、これまで侮っていた小さなことに程、重みを感じます。ブログを読ませていただき、そのように思い返しておりました。ありがとうございます。
細雪
2013/03/17 16:21

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