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zoom RSS 今日の教外別伝・休すれば通ず ・再考

<<   作成日時 : 2013/02/05 04:51   >>

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沖見ゆる山へ登れば涅槃西風 玉宗

「窮すれば通ず」と言われる諺がある。
その意味は一般的に「事態が行き詰まって困りきると、かえって思いがけない活路が開けてくるものである」というもの。どことなく運を天に任せるようなところがあるが、自己を投げ出す、執着を離れるという仏法の視点からも大いに肯けるところがある。窮した反作用で世界が開けることは世間的にもよく聞く話し。但し、仏法的には「窮すれば」ではなく、「休すれば」としたいところだ。「窮する」つまり「行き詰る」ことのない生き方を志している仏道からすれば、「窮して通ずる」というのも情けない話ではないか。まあ、私のような窮してばかりの人生を歩んだ者が言うのもなんだが、「窮する」以前の心術といったものがあるのではないか。それが「休する」である。

何を「休する」のか?

言うまでもなく「我執」である。ものを見、聞くにつけて人間は「事実そのもの」を受け入れ、施すことが出来ない。「私」という「屈折」を経てしまう癖から中々抜け出せないのが実際である。それが迷いや間違いの元ではないのか。なにかにつけて理屈や説明や言い訳を用意し、或いは後付けしなければ気が済まない厄介な存在者である。一体であることだけでは落着せず、なにかにつけて線引したがる癖がある。ああでもない、こうでもない。ああしたい、こうしたい、俺が、お前が、等々、「思い」に引き摺られ、引き摺り、いつの間にか「宙に浮いた」ような世界を創り上げ、挙句の果てに、右往左往、四苦八苦の煩悩の炎が絶える事が無い。

仏道はそれを「休しないか」というのである。

すべての物事は私の「思い」や「欲望」に関わりなく事実として成り立っている。つまり「通じて」いる。なるようにしかならない。然し、そこに私の見解が割り込んでくる。人間が万物の霊長にして、厄介な動物である所以。仏法はそれでいいのかと諭しているのである。それならば「思い」を「休し」することで不都合はないのかと心配されるだろう。「思い」「考える」という能力が人の世の文化文明社会を繁栄させてきたのではないのかと。
確かにそうであり、「考えるな」とか「思うな」と言っているのではない。

「休する」とは私の煩悩や思いや常識、知恵分別の「間の取り方」を言っているのである。
人間社会の悲劇や悲惨さは、「分別」で塗り固められ、「分別」で落書きされたが如き有り様ではないのかと言いたい。余白がない。人間の「分別」万能主義が悲劇のもとではないのか。「分別」という特権との「間の取り方」を間違ったことによる凶器と化した現代の窮状ではないのか。「思い」に執着して飽きない人間。仏法はそれでいいのかと言っているのである。因みに、「間」とか「余白」といえば日本的文化の真骨頂の如くに言われているが、西洋に於いてもその通底には「神との間合い・人間側の休止方」といったようなものがあるのではなかろうかと私などは捉えている。

古今東西、洋の東西を問わず、「休する」ことによって見えてくる人生の真相、物事の実相があるだろう。要するに「通じている」世界に人間はもっと謙虚になるべきではなかろうかと言いたい。



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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
私の「分別臭い」句もまた、対象との「間」の取り方の問題なのかもしれません。「我執」を捨てることによって対象の本質が見えてくればいいのですが、それができません。ありがとうございました。

2013/02/06 09:03

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