再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 首座法戦式

<<   作成日時 : 2013/02/08 05:51   >>

トラックバック 0 / コメント 1

画像


反古くべて春の焚火を育てけり 玉宗

昨日、總持寺祖院専門僧堂に於いて首座法戦式が行われた。
一般の方には馴染みがないだろうし、興味もないと思われる。三ヶ月に及ぶ安居期間中の総決算のような行持でもあろうか。毎年二回ある安居であるが、その間、それぞれ首座(しゅそ)と呼ばれる、言わば大衆を牽引していく役目、組長さんのような立場の雲水が割り当てられる。
首座を補佐する書記、弁事の三人ひと組が「首座寮」となって精進弁道に励むのである。この首座を果たして、法戦式を済ますことによって、僧階を一つ上るのである。

法戦式の内容は、決められた問答を安居の仲間たちの間で交わし合うのである。法問の内容を理解しているに越したことはないが、不思議なことに大きな声で、無心に問答し、お拝を繰り返しているうちに、分かったような気分になってしまうものだ。気分と言っては、仏道はそんなもんじゃないだろう、そんなもんでいいのか、といった批判的な見解もあろうが、私などはそれでも一向に構わないとさえ思っている。

画像


法戦式も宗旨を盛る「かたち」である。法問は悟りの内容、或いは悟りへの契機を自問自答しているようなものだ。それは修行者ひとりひとりの内実に関わることである。はっきり言わせてもらうが、宗門に於いては私の悟りなどといったものはそれほど後生大事なものではない。というか、心地開明しなくていいと言っているのではない。それもなんだが、心地開明以後を如何に保持して行くかといった実際の方が余程困難な道であり、余程意義のあることであり、余程見上げたものではなかろうかと思っている次第。悟っている人間は有象無象、捨てるほど世の中にはいるものだ。あのなんとか教の教祖だって富士山麓で悟り、坐禅を組んだまま空中浮遊して見せたのである。彼がもっと自分の悟りより大事なものを悟っていたなら、余程世の中の役に立ったであろうことは間違いない。

画像


因みに、わが弟子は今回の冬安居でその「首座寮」に入り、「弁事」の配役を仰せつかった。
法要にご詠歌で参列した夫人の話しでは立派に役をこなしていたらしい。先ずはひと安心である。一人では出来ない仏道修行も、こうして大衆の力添えでなんとかそれなりに歩むことができるのである。その法縁に感謝しなければならない。真の感謝に生きるとは口先だけの話ではない。奢ることなく、卑屈になることなく、真っ直ぐに、いつも新しい今の自己に出会い、引受け、施し、創造していくこと。道に生きるとはそういうことだ。それだけのことである。それだけのことを尊いことと自覚出来て初めて仏弟子の誇りに生きることが出来るというものではないか。私はそう思っている。

画像


法戦式が終ると間もなく冬安居も解制となる。山を下りる者、上って来る者。僧堂にも春の出会いと別れがやって来る。仏弟子と雖も、一期一会の人生を免れない。苦楽もひとときの様子である。迷いに迷うことなく、悟りに迷うことなく、悟りに曳かれることなく、迷いに曳かれることなく、欲望界隈の物差しをうち捨ててほしい。

そのような仏弟子の日常の果てに、思いのほかの新しい自己と巡りあうのである。それを疑ってはならない。首座和尚さん、御苦労さまでした。合掌

画像



「魚は氷に」

反古くべて春の焚火を励ましぬ

あの風が春一番と言はれても

春めくと思へる方へ傾きぬ

少しづつをかしくなりぬ春めくや

人住まぬ家はとびきり春の闇

犯罪めく都の路地に猫の恋

髪剃りしうなじを覆ふ余寒かな

読む気になれぬ句集山積み冴え返る

春浅き墓を宥めて帰りけり

行く末の見えたる春の焚火かな

魚は氷に仏弟子山に上りけり

雪解風ひらひら僧の降りて来る


ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
金剛の 橛を穿ち 頬染めぬ
甚深微妙 その温もりに
貧女の一灯
2013/02/08 12:05

コメントする help

ニックネーム
本 文
首座法戦式 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる