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zoom RSS 今日の妄想・人間らしさの一考察

<<   作成日時 : 2013/03/02 04:07   >>

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木の芽より一歩踏み出し空ひろがる 玉宗

本来、私のいのちは私の問題意識に関わりなく現象界という応えの中に生れて生きていると言ってしまって差支えなかろうと思うのだが、人間の人間たる所以は、どうも問題意識と共に生きているといったところにあるとも見える。
それを人生の前提にしてもしなくても、ときに、「内外」とか「ものと心」とか、「かたちと本質」とかいった座標軸の二見でものを捉えようとする癖を持つ私がいる。もうすこし下世話に譬えれば、生きている私への自己評価や他者の毀誉褒貶に左右され、ときに苦悩するといったことがある。それこそが問題の発端である。それはつまり可能性としてのいのちそのままを受け入れるのに手間取るといったことのような気もする。それを「愚か」と言ってしまうのは容易いことだが、そんな「愚かさ」を繰り返しながら人生を歩むのも意義のあることに見えなくもない。

人間、その煩悩に揺れている存在。

「本来」とか「あるがまま」などと私なども事もなげに言うのではあるが、見て来たようなことを言っている訳でもない。人生の体験則から割り出した「見えること」と「見えないこと」の様子を言いたいだけのもの言いである。
いのちは手をつけぬままでいいものだと言い張る人間はいないであろう。いのちも又、「習うべきもの」ではないのか。習う事によって備わり育まれる「智慧」と云った者もあろうし、生まれながら備わった「智慧」といった領域も、体験を経ることによって拡大、適応、先鋭化していくものであろうし、生老病死の中で「変容」していくにちがいない。それこそが「いのちの本来・本来のいのち」というものではないのか。

そうではあるが、仏道とは「生き方」である。人としてどういのちを戴き、施すか。言いかえれば「どういのちを本来させるか」といったようなことだ。「人としてのいのちの可能性を習う」と言ってもよい。それにしても気付かされるのは、いのちとは可能性という「性」と共に可能態という「態」そのものでもあるのではないかといったことである。「性」と「態」はどうみても「一体」と呼ぶべきものであり、敢えて使い古された「一如」と言ってもいい。「如」とは異と同を超越しているということである。「内外」とか「ものと心」とか「かたちと本質」といった自問自答も同様だ。「超越」とは「問題になっていない」と言い換えてもよかろう。

いのちは「問題」と「答」を超越している。「問題」がないのではない。「答」がないのではない。「問答」の二見にわたる人間らしさがあるということなのだろう。そういう意味でも、人生はまさに「生きつづける」ことにこそ意義があり、醍醐味がある。人生の完成とは「問答」を超越しているときと言っても過言ではあるまい。それこそが人間らしさの最後の砦なのかもしれない。

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「二月尽」

ばたばたと二月も尽きてしまひけり

やうやうに厠に日差し二月尽

謎解けぬままに老いたり二月尽

パンよりはやはり米だな二月尽

春の風邪臥所に余る明るさよ

火の神を祀る雪間の祠かな

よく見えぬ明日のやうに落椿

違ふ世の音立てゝゆく春の川

雲が来て覗いてゆきし春の水

生きながら墓標となりぬ春夕焼

ふきのたうこんな筈ではなかつたと

家出してみたくて摘んだ蕗の薹








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