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zoom RSS 俳句には説教されたくない?!

<<   作成日時 : 2013/03/20 03:25   >>

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紅梅のかそけき色に恥じ入りぬ 玉宗

「今日彼岸菩提の種を播く日かな」

お彼岸は中日を挟んで七日間の行事であり、仏教的徳目の六波羅蜜をそれぞれの日に配して功徳を積むといった風習がある。現代は余り、一般的に実践されているようにも見えないのだが、上掲の句は当にこのような彼岸の感興を述べている句なのではある。

この句の作者がだれであるのか知らないままに過ごして生きた暢気な私であるが、芭蕉説というのもあるらしい。云われてみればそんな気がしないこともない。芭蕉さんはあれで結構「今風な自己表現欲」が強かったといった識者の見解もある。「表現者」としての自己意識といったものだろうか。それにしては月並な句ではある。月並を非難しているのではない。蕪村にだって、子規にだって月並の句は山積している。

私などにはこの句は蕪村のもののようにも見えるし、また、如何にも月並をものともしなかった自然派・正岡子規の句にも見えてくる。病状六尺に臥していた子規が思わず呟いた写生句にも匹敵するではないか。
「毎年よ彼岸の入りに寒いのは 子規」この何気なさに通うものがないではないが、彼岸の句にはどこか「説教臭さ」が残る。「かな」の恩恵でなんとか俳句たり得ているみたいなところがある。


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俳人が敬遠する俳句にも、月並、常識の範囲内、理屈っぽい、陳腐、独り善がり、稚拙、説明じみているなど色々あるようだが、「説教臭い」といったものもある。所謂、短歌では「道歌」と呼ばれるような代物で、俳句の場合「道句」とでも云うのだろうか。俳句の土俵の上でまで説教されたくはないといった風流人の誇りがあるのだろう。それは俳諧の起源に関わるような理念であるのかもしれない。俳諧は神祇釈教や雅や俗の世界を越えるものだといった意気ごみ、アウトサイダー、もののふ意識がある。一体何様、何者なのかと云いたくなるが、当に「俳人」「人には非ず」という所以である。

上掲句の場合、彼岸が菩提の種を播く日であるといった「仏教的理屈」があり、且つ「種を播く」も独立した春の季語である。そこへ「菩提の種」とくることで、川柳的「うがち」へ傾斜していよう。問題は「今日」と「かな」の響き具合であり、「今日」という措辞で今のあり様を特定したことと、「かな」という俳句的詠嘆・余情の力が新鮮といえば、どうにか新鮮たり得ているのである。俳句の真骨頂である「不易」と「流行」が辛うじて担保されているような句である。

「理屈」っぽいのではあるが、詠嘆することでその「理屈・説教」も強制的ではない。「臭み」が少ない。俳人の中にはこの程度の「臭み」を好む者さえいるかもしれない。俳句に興味のない一般ならば「こんなものか」と何の問題意識もなく受容するであろう。ましてや多少の川柳的「うがち」も備えている。そういうこともあってか、お寺の掲示板にはよく掲げられている句であるし、お坊さんも又、彼岸の説教の枕詞として臆面もなく利用しているもののようだ。

まあ、作者が芭蕉さんであろうと子規居士であろうと、はたまた市堀玉宗であろうと、句会でこの句が出てきても私は採りませんけどね。

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「ほとぼり」

生涯を北の大地に雪を割る

出稼ぎの父帰る日や雪を割る

花のやうに貰われてゆく仔猫かな

黒々と彼岸の雨に打たれをり

木の芽吹き空を遮るものもなし

恥入りぬぺんぺん草の咲く辺り

野遊びのほとぼり冷むるはぐれ雲

寄せて引く波の音にも春めきぬ

ぶらんこや瘡蓋少し乾くころ

能登富士の裾野の畑を打ちにけり

フリージア本心をまだ言ひ出せず

菠薐草隙なく生きて淋しき日

朝寝する漂着物の父であり




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