再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 弥生尽・明日を信じて

<<   作成日時 : 2013/03/31 05:02   >>

トラックバック 0 / コメント 1

画像


黄水仙流れに映るきれいな顔 玉宗

三月も今日が晦日である。
昨日は畑作務をして春の汗を流した。三月と言えば一般的には出会いと別れ、そして旅立ちの月でもあるが、そのような人生模様もまた日々淡々と移ろいでいくばかりである。なにひとつとして止まるものはない。

二月もそうだが三月もあっという間に過ぎた。光陰矢の如し、どころではない。光陰無きがごとしである。そうではあるが、いつも掛け替えのない自己のいのちを生きてきた事実の経過であることにはちがいない。それは何度でも肝に銘じて過ぎるということはない。然し、あってなきが如くの光陰であるから、やり放題というわけにいかない。そのようなある種「公的本質」を持っためぐり合せが人生の人生たる所以でもある。

過ぎてしまえばみな美しかったり、悔しかったり、地団太踏んだりの人生であるが、誤魔化しのきかないなれの果てに今の私があるといってもよい。これはいったいどうしたことか。その大部分が夢や期待や当てを外れているとも見える。予定調和の人生だったとはとても言えない。そしてまた、思い通りにならなかったが、それが全て不都合だったとも言い切れないところもある。なにもかもが予想通り、思い通りになるというのも怖ろしいことだし、有り得ないことだ。そんな全知全能もまた御免蒙りたいものだ。

予想通りにしろ、予想外にしろ、一つの結果が私を未知なる次のステップへ押し出したのには違いない。新しいいのちの展開。それをどうのように戴いて来たのかということだ。五里霧中の中で、なんとか自己の灯明を掲げて生きてきた。ときに失敗をし、躓き行き詰まり、ときに背中を追い風に押され運の流れに乗ったり、ときに喜び、泣いて、悔いて、夢をみてきた私がいる。

そのような私ひとりのいのちの在り様を振り返り、慈しむ。そんなことをするようになった私がいる。それはつまり、私がまだ私を信じようとしていることらしい。私は私の明日を信じたい。例えそれがどんなにみすぼらしい花であっても、私は私という花を咲かせない訳にはいかないのである。神様だってそんないのちの冒険を咎めたりはしないであろう。

画像



「物種播く」

けふもまた頭悪くて蕗の花

つくしんぼだれも面倒みてくれず

ほどほどの日向に倦きて茎立ちぬ

ふきのたう待ち草臥れて大きくなる

挨拶が上手にできて桃の花

馬の仔が青き山脈蹴り上ぐる

物種を水に流すがごとく播く

鶯の試し鳴きせる藪の中

黄水仙流れに映るきれいな顔

春の川堰に止まる毬一つ

捨て猫や花雪洞の灯るころ

親猫の遠慮顔なる子沢山

切株の黒々と濡れ春しぐれ







ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
私はこの3月で古稀になりました。行く末がどうなるのか分かりません。でも、このどうにもならない自我に少しでも拘らないような生き方をまっとうしたいと考えてはいます。花の種蒔いて明日を信じたり こんな駄句を詠んだのも、どこかで何かを信じていこうという表れなのかもしれません。ありがとうございました。

2013/04/02 16:26

コメントする help

ニックネーム
本 文
弥生尽・明日を信じて 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる