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zoom RSS 戒名はいらないって、どうよ?!

<<   作成日時 : 2013/04/17 05:24   >>

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若葉吹く風の音にも大乗寺 玉宗

三国某という某有名俳優が亡くなり、「戒名はいらない」という遺言を遺族に依頼していたと云う。
死者に「戒名」という仏弟子の証明を授けることを無意味だと捉えている人が少なくないことは知っている。それをとやかく言ってどうにかしようとする魂胆は持ち合わせてはいない。人生のすべてに「意味」が予定されているとは私も考えてはいない。無意味と言えば、諸行無常はすべてを無意味化する。

葬儀や供養は遺された者たちの死者や先祖(命のつながり)への礼儀であり、生死一如の命を受け入れる一つの「かたち」であろう。「一つのかたち」に意味を持たせるものは何であろうか。
彼の俳優にとって人生という「かたち」が無意味だったとは考えにくいし、見た限りその様にも思えない人間らしさがある。「俳優」という「かたち」に命を賭けていたらしい彼にとって、それはまさに「意味あるもの」であったに違いない。「戒名」や「仏教」、或いは「お坊さん」への「信」がないということに過ぎないという話しなのであろう。それもまた可ならん歟である。


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ところで、例によって屁理屈をこねるのであるが、「意味」は「かたち」に先行するだろうか。或いは逆に、「かたち」は「意味」に先行するだろうか。人生に意味を持たせ、いのち意味あらしめさせるのは何か?誤解を恐れず言えば、それはおそらく「出会い」ではなかろうかと思っている。「無私なるもの」との「出会い」といったものが人生にはある。「信」とは「外」からの強意ではない。「自ずからなるもの」であろう。「理屈」は後からでも、前もってでも、途中からでも、いくらでも取ったり付けたりすることが出来る。

彼にとって「俳優」という「かたち」と「意味」との現実は当に「理屈」を越えた「信」といったものではなかったか。彼もまた「信」に生きていたのであると思う。「信」と一体となった人生。それこそが「宗教」の教え、導くべき本筋であろう。「戒名いらない問題」など枝葉であるといって差支えない、などと言い張るつもりもないのだが、自称「仏教徒」への「戒名」を意味あるものとする「授ける側」の説得力・無私力が試されているのには違いあるまい。

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「大乗寺晩春・山の音二十句」

夏安居控へし山の深みかな

あたたかや愚かに石の仏菩薩

道問へば金沢訛りのどけしや

若葉吹く風の音にも大乗寺

羊歯萌ゆる昼なほ暗き仁王門

囀りや空を汀と思へとや

結界を飛び出す春の筍ぞ

山門を一歩出づれば葱坊主

雲水を呑みこんでゐる山霞

花屑とみればおほかた行きどまり

ほとけみな遠まなざしや春の草

若竹の空吹く風のあるらしく

初蝶のあらがひながら風まかせ

春深き山の音とは風の音

春の風ときどき声を上げにけり

開山の閼伽にふるふる桜蕊

春の山叩けば妙な音すなり

三味線草仏足石を擽れる

若楓風を従へはじめけり

蜂唸るほかは音なき大伽藍

茶を啜る音ばかりして春の闇



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