再生への旅

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zoom RSS 生きている、そこが故郷?!

<<   作成日時 : 2013/04/20 04:40   >>

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春濤や帰る由なき郷があり 玉宗

思えば、生れ故郷より他国で生きてきた歳月の方が十年以上も長くなっていた。
二十代半ばで北海道を後にして「内地」に出てきた。出家までの紆余曲折。そして出家してからも又以前に劣らない紆余曲折の人生。まさに綱渡りといって差し支えない。よくぞ今日まで生きてきたことではあると我がことながら他人事のように感慨深いものがある。

振り返れば、それもまた確かにあっという間で、光陰矢の如しどころではなく、光陰はあってないようなものというのが実感である。そうではあるが「引くに引けない、どうしようもないわがいのち」を生きてきたのには違いないのであり、だれも代って私に生きてはくれなかったという当たり前で、厳然たる現実を目の当たりにするのである。

思うように生きてきた様にもみえるが、結果としてそうでもないと言った方が事実に近いのだろう。いずれにしても私の思い、為したことの積み重ね、因果の果てに今がある。その事実を受け止めるのに吝かではない。卑下して言うのではないが、私というあってもなくても、一向に世界の趨勢に影響がない存在。それはそのまま私がいてもいなくてもなんともない世界の有難さを教えてもくれるのである。

一体であるからこその不自由さと自在さ。大いなるものの一部であるからこそのもの足りなさとなんともなさ。そのような不思議ないのちの在り様を、私は私という危うく、些細な、諸行無常から学ぶのである。そんな市堀玉宗のいのちの故郷とは何か?

この世のいのちとして縁を戴いた最初は確かに北海道という故郷ではある。「縁」にも様々ある。父と母の血肉を戴いた縁。師の縁。そして生まれ育った「土地の縁」といったものがある。「縁」は私の恣意で捨てたりできるものではない。いのちはいつも「縁」の真っ只中でいのち足り得ている。過去の縁は無くなったのではない。今のいのちの土壌として、或いは支点として「存在」している。

私は常に「過去。現在。未来」という「縁」の真っ只中で息をしている。それは疑いようのない事実ではないか。いのち戴いて生きているとは決して狭い範疇の話しではない。今、こことは実に広大にして、深く、豊かな事実であるということだ。私も、そしてあなたも。

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「穀雨」

みんなみに夢ものがたり春の波

春潮のけものの如きうねりかな

だれも吾を春の濤ほど叱りはせず

春濤や帰る由なき郷があり

たんぽぽの恥辱に耐えし明るさよ

春宵のもの足りなさを味はへり

徒食して穀雨の雨に打たれをり

土竜みち隆々として穀雨かな

漁るや春あけぼのの水鏡

口籠る空の暗さよ落椿

桜蕊降るやきのふも日記せず





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