再生への旅

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zoom RSS ある参禅者「坐禅という信仰」

<<   作成日時 : 2013/04/27 04:21   >>

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鳥雲に経諳ずる巌の上 玉宗

昨日はおかしな天気で、朝方は雨。昼ごろには青空も見えていたのだが、その後また雨。そのうち春雷を伴い、雹のようなものさえ降って来た。その晴れ間を縫うように来客があった。埼玉からいらした齢八十歳になる参禅者である。御誕生寺、總持寺祖院、大乗寺と、ご縁のあるお寺を仲間の二人と共に参拝しての旅の途中であった。

初めての出会いは今から十年程以前、御誕生寺に出仕していたときである。若いころから参禅をされていたと云う事で、背筋もよく、メリハリの利いた対応は年齢を感じさせない清々しさがあった。僧堂生活をひと夏御一緒して、ほどなく自宅へ帰られた。間もなく奥さまに先立たれた。その後自宅を解放して参禅会を始めたという便りがあった。御自身は以前から地元のお寺へ参禅し、宗門では知られた某老師の薫陶を受けて来られた方である。居士ながらも参禅会を持つ心意気には驚いたものだった。

永福寺の寒行托鉢に随喜したいと望まれたことがあったが、流石に年齢的なことを考慮して遠慮して戴いたこともある。舌癌を克服して来られた過去があるが、参禅には何の支障もないといった様子で、年寄りの冷や水といった無理なものではなく、こちらが圧倒されるような自然体なのである。勿論、坐禅会は今も続けられている。氏にとって坐禅は信仰そのものである。坐禅が本尊と言って憚らない。そこには人間界の欲望に滞るといった空気がない。坐禅の信仰で練り上げられた平常心の活き活きさといったものを感じさせる。

なぜか当時より私に興味が引かれたらしく、現在に至るまで近況のお便りを戴くような仕儀となっている。能登半島地震に被災した折も、心配してくれて、「一緒に勧進托鉢をしましょうか?」と言いだしたのには困ったものだった。居士ではあるが、自己にぶれない生き方は当に仏道の先達であり、頼もしい同行者ではある。息災を願って已まない。



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「炬燵塞ぐ」

かうしてはをれぬ炬燵を塞ぎけり

けふからは遺族の炬燵塞ぎけり

蒜ほど遠ざけてゐる人がをり

苧環の花に屈まる失意あり

陽炎の踏み切り渡る別れかな

どちらかと云へば無難なシクラメン

憧るゝ東京暮らし鳥雲に

真面目さがいささか足りぬ蛙かな

落椿敵打ちたる艶やかさ

野遊びの背後に迫る空の絶壁

これはもう菜種梅雨ではなからうか

虫出しの雷に驚く臍の穴

たんぽぽのどこか投げ遣りな明るさ

寓意としてチューリップのごと生きたとて

残されし鴨かもしれず残れるは






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