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zoom RSS 選句、それは人柄との出会い

<<   作成日時 : 2013/04/29 04:19   >>

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よく晴れて空は魔が差す竹の秋 玉宗

現在、「栴檀」誌の隔月課題句選者をさせて戴いているところへ、「竅v誌からも期間限定の同人作品評を依頼された。予定では寺務だけでも多忙になりそうな五月である。お断りすればよいものを引きうけてしまった。
選句とは結構体力、集中力がいるものである。余り、緊張し過ぎていても宜しくないが、いい加減な選句をする訳にもいかない。

虚子は「選も創作である」みたいなことを言ったらしいが、そこまでオコガマシイことは言えないまでも、選者である私が試されているには違いない。その器、響き具合、感性といったものを衆目に晒す作業である。実作力と選句眼、そして批評眼は切り離せないものであることに基本的に異存はない。基本的と断るには、実際のところ実作、選句、批評がそれぞれどれほどの一人歩きをしているのか私には解らないからである。市堀玉宗は三つも駄目、ということもあろうし、作品はいいが後の二つは取るに足らないといったこともあり得るだろう。私の周りの俳人にそのような現実を目の当たりにしているからである。まあ、それは大した問題ではないが、今回は選句の現場で感じていることを述べてみたい。

選句とはつまり私の感性に響く作品を選ぶ作業なのであるが、それは確かに「響く」とか「光っている」という風に譬えることができる「出会い」である。作品との「出会い」それは「人柄との出会い」と言ってもよかろう。単に「人」ではなく「人柄」と言いたい。作者の「色」「彩」「息使い」「何気さ」「心根」「生きる姿勢」といったものが「作品」という「言葉の世界」に光るのである。五七五の最短定型詩には作者の「こころざし・俳句の誠」が紛れもなく顕れる。言葉一つ、助詞一つ、てにをは一の細部に至るまで、作品の面構え、出来栄え、雰囲気、匂いのようなものを醸し出している。

五七五の小さな構造物に作者の個性(人柄)があるとはどういうことか?実は私にもよく解らないのである。解らないままに選句という出会いを繰り返している。以前は目にも入らなかった作品の何気なさに痛く惹かれるようなこともある。作為や底意が見え透いて敬遠する事もある。理が過ぎたり、情が過ぎても、どうもいけない。言葉遊も過ぎるのはついていけない。人柄との出会いと言いながらも私の感性に響いたり、投影されたり、光り輝く作品は、そこそこほどほどの人間らしさを備え、且つまた人間らしさを越えた「無記名性」といった領域であることに気付いたりする。同様な事は他人の選句や批評にも言えることである。

そのような訳で、私の俳句世界も結構いい加減な代物ではあるが、私の選んだ作品は良い悪いの範疇で片付けられても困る。世の中は悪人が幅を利かすこともあろうし、善人が憂き目を見るということもざらにあることだ。どこまでも私の感性に響いたということである。(まあ、あたり前なことではあるが・・)
作品も無責任ではあるが、選句や批評も無責任である所以である。御寛恕願いたい。


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「竹の秋」

竹秋の先を競うて遊ぶ日ぞ

竹の秋賽銭箱へ日の当たる

母屋より呻き声する竹の秋

よく晴れて空は魔が差す竹の秋

花は葉にこころさざめく日なりけり

孤独死の始まつてゐるのどけさよ

手放せば風を孕みし幟かな

山越えて青き風来る鯉幟

幟上ぐ子供に尾鰭持たせつゝ

青空の裏は底無し花辛夷

妻をらぬ夜のいよいよ朧なる

海棠の花には強き日差しかな





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