再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 「かたち」についての考察・その3「ほんものとにせもの?!」

<<   作成日時 : 2013/04/05 04:18   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


春の川顔が崩れて已まぬなり 玉宗

「かたち」への考証であるが、以前UPした「似非坊さん」という記事の中で「本物と偽物」に関して述べたのであるが、それも「かたちへの考証」とも言えると思うので、多少推敲、加筆添削して再掲する。

時々、テレビの取材現場に亡霊のように映っていることもあるお坊さんの托鉢姿。それは門付けしてお経を上げるタイプではなく、ほとんどが棒立ちしているだけのものである。街頭募金などに見られるやり方で、宗門でもこの方法で伽藍再建のための浄財を集めた方がいることを知っている。一日中、同じところに衆目の的、或いは無視の中で立ちつくす。私は今まで専ら一軒一軒の玄関先に立ったり、お経をあげながら歩き続ける托鉢である。どちらがどうのこうのというつもりはない。その土地の風習とお坊さんの見解に見合った方法で行じていけばyぽい。

今回、取り上げるのは「お坊さんではないのに衣を着て、網代傘を被り、応量器を手にし、誰が見てもお坊さんの托鉢である」と誤解させてしまう方々がいることである。誰が何と言おうと、自称お坊さんで生涯を貫き通すというのもありかもしれないが、それは今ここで問題にしない。

誰が見てもと書いたが、実は誰が見ても偽物と解るのではないかといいたくなる。少なくともお坊さんが見れば一目瞭然である。お坊さんが違いを指摘しないかぎり、一般の人達は托鉢とはああいうものなんだと認識することだろう。形を真似たらしいが、その形が形になっていない。一般的に「姿・形」の方が真似がしやすいと思うであろうし、「形ばかり真似して、中身がなっていない」という言葉はよく耳にする。然し、ことはそう単純な構造でもないし、実際「こころない形」に惑わされ、救われている現実がある。

大地震被災の頃、「思いはだれにもみえないが、思いやりはみえる。心は見えないが、こころ使いはだれにもみえる」というACのコマーシャルが有名になった。似非お坊さんたちは「こころがみえない」ことを鵜呑みにして「形」を真似しているのだろう。然し、彼らは「かたち」の「遣り方」「使い方」を知らないと私は言いたい。何故か?こころの本質を知らないからである。

画像


「意」は似せ易く、「姿」は似せ難しという本居宣長の言葉がある。
「意」「姿」も「似せ易い」「似せ難い」ものであって、それはどこまでも「似てる、似てない」という範囲での話である。それそのものではない。それはどこまでも似ているが非なるものである。だれが真偽を知ることができるのか?本人だけが知っている、と言い切れるものでもない。本人が一番勘違いしている、妄想している、思いこんでいる、偶像を懐いていることは日常茶飯事である。こころはそれほどに厄介で、うつろい易く、捕えがたい。姿もまたそのような心模様の影絵のようなものかもしれない。

托鉢であがる浄財の額などしれたものであることを、お坊さんも喜捨してくださる方も、暗黙に了解している節がある。何も目くじらを立てなくてもいいだろう。生活保護の一環として大目に見てやればいいではないかという日本人的情緒からの寛容さもそこにはあるのだろう。このような家業も今に始まったことではなく、似非お坊さんもそれなりに歴史があるのかもしれない。

彼らは喜捨してもらった浄財を衣食住に使っているのだろうか?宗教的公金に使っているのだろうか?困窮者や被災者への援助金として使っているのだろうか?そんなことはだれにも聞かれもしないのだろう。このような現実であることからして、逆に乞食根性で托鉢をしているお坊さんもいることであろう事は予測に難くはない。
然し、本物と偽物を見分ける目を育てなければならないことは、托鉢やお坊さんの真偽だけではなく、あらゆる社会での問題でもあろう。お坊さんが「生き方」ではなく、「職業」として自他に認められている現代。彼らはその曖昧な境界線を見事に衝いて世の中を渡っている。

以上のような事の通塞と合わせて平等と区別の問題がある。味噌と糞を一緒にできない区別が歴然としているのも現実であり、味噌も糞も糸瓜もない平等のいのち歴然なることも事実である。同じお坊さんと雖も、小僧さんが禅師様の席に座ることはあり得ないのである。同じ人間であるが、お坊さんと乞食は違うのである。

お坊さんも似非お坊さんも見て見ぬふりをされている現代。お坊さんも社会も、たかが托鉢と侮ってはいけない。小も大もない、取るに足りないと思われる「侮る心」から大きな「綻び」を来すことは古今の歴史の示すところである。「意・こころ」「すがた・かたち」ともに侮ることを已めない限り、身も蓋もない、味噌も糞も一緒の、元も子もない可笑しな世相が続くことであろう。混乱したあやふやな時代なればこそ、騙すほうも騙される方も、暗黙のうちに見事に本物と偽物を嗅ぎ分ける能力が人間にはあると信じたい。


画像



「曲水」

血塗られし空へ盃流しけり

曲水や流れて止まぬ歌心

蟻のせて流れ着きたる花筏

強く優しき手もて蕨を摘み取りぬ

峡深き平家が裔の田打かな

五重塔見ゆる日向に干すぜんまい

春の川顔が崩れて已まぬなり

はらわたに意外と響く春しぐれ

鳴く鳥のいのちを懸けてあたたかし

母がゐぬ菜飯に宵の雨が降り

茶箪笥の中は真つ暗桜餅

朝寝する漂着物の父であり

影うすき新入社員引き抜かれ

違ふだろ蕗味噌はこんなに甘くない



ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「かたち」についての考察・その3「ほんものとにせもの?!」 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる