再生への旅

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zoom RSS 今日の選択「二度あることは三度、仏の顔も三度まで」

<<   作成日時 : 2013/04/06 04:36   >>

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傷口を広げてゐたる日永かな 玉宗

「人はだれでも二度目の機会を与えられるべきである」

韓国ドラマ「トンイ」をみていたら、主人公のトンイが上のようなことを語っていた。様々な陰謀・策略を生き伸びて後宮にまでなり、自分を貶めた者達への処分にあたり、その寛容なこころの表白という設定である。ん〜、如何にもドラマの主人公になるに相応しい!(当たり前か・・)

その愚かさ、無明故に間違い、自他を傷つけ、罪つくりな業を為すといったような事例は枚挙に暇なく、耳にも目にもよく触れるところではある。かく言うわたしも又、二度あることは三度ある、といったような無様な人生を経てきたような人間。恩のある多くの人の義理を欠き、面目を潰し、顔に泥を塗り、仏の顔も三度までが紛うことなき現実であることを身にしみて今にあるといって差支えない。

世間は怯えるほど辛くはなかったが、確かに甘くもなかった。ここに至って、人生の甘さ、辛さが私の生きる姿勢の反映であることを認めないわけにはいかないのである。因果歴然、因果応報。思うようにはならないが、やってきたことの結果は眼前の事実となってしっかり私の目にも身にも心にも焼きつくのである。余程の馬鹿でない限り、流石に身のほどを知るというものだ。

再生の機会といったようなことも、天から授かる「縁」である。二度で済む人もあれば、一度もないという人もあろう。何度もあるということも。できることなら無いで済ませたい。二度以上繰り返すということは、もうほとんど「癖」になっているとしか言えない。「業」というやつだ。身や心についた「癖」こそが「曲者」なのである。いのち真っ直ぐ頂き、施し生きることに憧れる所以でもあろう。

私にとって出家は「生まれ変わること」であった。再生。この身このままで生まれ変わる。同じ愚を繰り返すのは如何にも悔しい。そろそろ落ち着いてもよさそうなものである。「死」という最後の再生の日まで、もう少しマシな人生を歩みたいものではある。一度限りのいのち、であるから、人生再生の機会もまた、常に一度限りであるといった覚悟が試されている。自己に甘えてはならないのだろう。人生の敵は私自身であり、討つべきは私自身の無明・愚かさであることは明らかである。

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「木の芽どき」

兄さんが可笑しくなりし木の芽どき

空開けて能登の曳山春祭り

銀鱗の海に澪曳き鰆舟

木の芽時だんだん空が喧しく

囀りの意味不明なるがよかりけり

傷口を広げてゐたる日永かな

春の夢色極まりて失せにけり

花杏翳なき空に匂ひたち

木の芽どき真面目に生きてこれくらい

気立てよき嫁とし生きて桃の花

雪柳そろそろ汗も匂ふころ

木瓜の花日向に厭いてしまゐけり

枝咥へ鐘鳴る方へ東風烏

蜃気楼虫唾のやうなもの走る

疲れたることさへ花の所為にする

いふなれば失楽園の草を摘む

木の芽どき空のどこかが破れたる

木蘭の癪に障りし高さとも


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