再生への旅

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zoom RSS 死者と共に生きる・儚さと美しさ

<<   作成日時 : 2013/05/13 04:49   >>

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おほでまりこでまり母の声弾む 玉宗

昨日、一つのご法事をした。
読経後の法話の枕として、故人への追懐の念を御遺族へ述べたことである。甦る故人の面影は柔和な人柄そのままの、穏やかで、怒ることを知らない、微笑みだけと言ってよいものばかりなのである。これはいったいどういうことなのか?

人は死して様々なものを遺すのであろうが、生前の面影がどのようなものになるのだろうか、ときに予想してみても悪くはあるまい。今、この時に息を引き取ったとして、私は家族や廻りの人へどのような面影遺産をのこすことになるだろうか。思い出作りために生きている訳でもないといった見解もあろうが、結果としてそういうことになるのには違いない。それがどのような色合いの思い出になるかは、言うまでもなく、ひとえに私の生前の生き方に関わっていよう。

嘗て、小林秀雄が「思い出となればみな美しい」といった世間の常識に対して一言物申していたように記憶しているのだが、それがどんな内容であったか思い出せない。恐らく、小林のことであるから人生の意匠の中で考えるヒントを与えてくれていた筈である。

「思い出となればみな美しい」

それは人が人生を歩み続けるための智慧なのであろう。生きているものとは何かを学んでいる存在である。「死」から学び、「過去」から学び、「未来」から学び、「諸行無常」から学び、「自己」から学び、「他者」から学び。小林にとって「美」とは竟に「無私なるもの」「無常なるもの」であったと思う。「醜さ・愚かさ」とはそれと対極にあるものであろう。

「死」が崇高なる生贄であるために、私は「無私なるもの」へいのちを施し、尽くさなければなるまい。これまで多くの人と死に別れてきたが、不思議なことに「死者」はみな一つの例外もなく「美しく、遥かなもの、永遠の存在」として私の前に面影となって立ち現われる。これはどうしたことか?

私にとって「他者の死」とは「思い出・面影」として再生する。私はそのような繋がり方をして「他者」をわが肉とし、わが血とし、わがこころとして生きてゆく。

「思い出となればみな美しい」

これは生きている人間の貪欲さ、御都合の良さを言っているのではない。無常なるいのちを美しいものとして戴く人間の智慧の柔軟さを代弁してはいないだろうか。思い出が美しいのではない。思い出を美しいと受け止める無私にして、無常に棹さして人生を歩んでいる人間の、リアルな眼差しがあるのだ。死者と共に生きる、仏の方を向いて生きるとは夢物語ではないのである。今、ここの、眼前の事実であると言いたい。


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「虞美人草」

雛罌粟のゆらめき城も傾きぬ

虞美人草湯舟のやうに花浮かべ

ひなげしの風に吹かるゝそのやうに

おほでまりこでまり母の声弾む

詩に痩せし朔太郎忌や屋根の月

街中を薄暑の妻に随へり

先生の実家の独活が咲いてをり

波々と空の映れる代田かな

竹の子に躓き空をどよめかす

夏草や経文眠る匂ひして


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