再生への旅

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zoom RSS 雲心水意・かまえることなく生きる

<<   作成日時 : 2013/05/15 04:44   >>

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雲を呼ぶ君影草の丘に立ち 玉宗

能登半島地震に被災して実感として強く気付かされたことがいくつかある。

災害にあうことも「縁」であるということ。諸行無常の在り様を端的に学んだという事。それらは私の都合でどうにかなったり、ならなかったりするようなものではない。「縁」は私の恣意で選べるものではないという当たり前のいのちの現実を知らされた。選べるものではないからこそ、それは人生の宝なのであり、その「宝」を「どう活かすか」といったことが私に試されている。生きるとは「縁を生きる」ことであり、それこそが「生きる意味・意義」の一つなのである。

「仏弟子と何か?お寺と何か?」といったことに関して改めた考えさせられた契機であったということ。
ものとこころ。生きるために喰う・喰う為に生きる。どちらも真実である。人間は志しなく生きていけるものでもないし、志だけが先行して生きているわけでもない。

危うく、かけがえのない命をどんな人生に賭けるのかが銘々に試されていることはまぎれもない事実であろう。これもまた人それぞれの「縁」としか言われない「旅立ち・飛躍」といったものだ。
私が仏弟子を選択したのも、つまりそういうことである。そんな私が「お寺」を失くしたとはどういうことだったのか?「お寺を再建する」とはどんな意味があったのか?

答えのないままに、始めた再建托鉢。その日々の「行」そのものに気づかされる。「托鉢行」という「三輪空寂」の「事実・今」の中に「仏弟子であることの本質」があるのであり、「仏法の全体」があるのだと云う事。そこには「今の事実に掬われている私」がいる。「今の事実に足りている私の命」がある。

「仏道」とはつまり、今のいのちに目覚め、戴き、尽くすということであってみれば、「お寺」という「伽藍・かたち」が先にあって、「道・行」が備わるのではないということ。「ものとここころ」はつねに「同時」である。

今、ここが、道の全体であるのだと云う事。今、ここに、成道し、修証し、涅槃し、諸行無常し去る。自己を担い切るということ。お寺の再建は私自身の再建であった。それを忘れてはならない。私の日常とは日々自己更新。自己再生のことに他ならない。妄想せず、かまえることなく、雲の心、水の意のままに今を戴いて生きていこう。

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「光り」

新茶煎れ泥を吐かせるつもりらし

さ緑の光りの国の新茶かな

芝桜勢ひ余りはみ出しぬ

芍薬の花がくしゃくしゃしてゐたる

せせらぎの愈々光る清和かな

千尋の渓へ差し出す朴の花

栞なす頁捲れる若葉風

ぼうたんの花には重きけふの雨

汝が肩を牡丹とおもひ傘ひらく

月光に滴り已まぬ巌かな

雲を呼ぶ君影草の丘に立ち

鈴蘭の咲いても咲いても淋しさよ





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