再生への旅

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zoom RSS 共に生きる・老若男女という出会い

<<   作成日時 : 2013/05/17 04:54   >>

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ずぶ濡れの誕生仏を置き去りに 玉宗

昨日、5月16日は興禅寺釈尊降誕会・花祭りであった。
夜来の雨も朝には上り、少し肌寒くはあったが、まずまずのお天気。總持寺祖院僧堂から大衆さんの法助を得て10時半に打ち出し。弟子も侍者として参加した。
堂内の五色幕を寄進して下さった施主の祠堂経に続いて、正当諷経、献灯諷経。


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昨年、花御堂を新調した記念に、地元の保育園児を招待してお遊戯などを演じてもらった。今年もまた、かわいい園児たちが揃って参拝してくれた。甘茶を仏様へ灌ぐ真似をして、行儀よく法要を見ていた。

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法要終って、園児等の歌と踊り。参拝していた檀信徒のみなさんも目を細くして楽しそうであった。
方や園児という眩しい未来の光りと、方や厭になるほど生きて来られた大人たち。老若男女。仏の前にはみな仏子であるとは言え、前後左右、長幼の序というものは確かにある。尊重されなければならない。

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老若男女が一堂に会することによって、人の世の在り様、いのちの在り様を自ずから目覚ましめる、といった現実があろう。自分とは違ういのちの可能性を目の当たりにすることによって、人は自己の一大事に思いを馳せるであろう。自己の可能性を点検する事が出来るであろう。

寛容さ、優しさといった人格は、違いを受け入れることによって生まれ育まれるものではなかろうか。

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私たちは諸行無常の今を世代を越えて共に生きている事実を真っ直ぐに受け入れるべきであろう。すべてわが世界の様子である。いとけなきいのちと老い先のしれた自己。選ぶことなき今の出会い、巡り合わせに手を合わせたいものではある。恐縮するならばわがいのちの深さ、豊かさ、今の出会い、自己の真相にこそ恐縮するべきである。目覚めるべきである。

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共に生きている、といった自覚こそが諸行無常を逞しく生きてゆく一つの力であることは間違いない。共に生まれ、共に生きて、共に死んでゆく。そこには確かに一人で生きる充実感とは違った生きている喜び、明るさといったものがある。徒党を組むことを毛嫌いする私ではあるが、共に生きる、それもまた、仏の方を向いて生きていく条件なのであると教えられる思いがしている。

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「鵜」

鵜の咬みし鮎にためらひ傷ありぬ

海を恋ふ遠まなざしの鵜なりけり

盲ひたる鵜を蠍座に飼ひ殺す

控へをる鵜籠の闇のしづけさよ

くちなはと出会ひがしらを分かち合ふ

生まれて以来空の広さと緑の夜

子燕の覗いて行きし乳母車

国難の始まつてゐる蛞蝓

しんとして庭の躑躅の燃えてをり

筍の押し上げてゐる雑誌かな

筍を探す爪先手の如く






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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
保育園児を招待しての花祭りというのが、いいですね。それも遊びごとでなく、本物の仏事を見せるのが、すばらしいと思います。東京にも仏教系の幼稚園はありますが、地元の一般の子を招待する例は見かけません。
志村建世
2013/05/17 22:53

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