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zoom RSS 原郷に生きる

<<   作成日時 : 2013/05/19 04:10   >>

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苧環の花には遠き空の果て 玉宗

先日、県外に住まわれていたある檀家の奥さんが亡くなられた。御夫婦とも、石川県生まれで、成人過ぎまで地元で暮らしていたのであるが、仕事の関係で県外に住むようになって半世紀近くになろうとしていたのである。故郷に住んでいた時間よりはるかに長い人生の歴史を刻んできたということだ。15年ほど前まで年老いたお母さんが一人暮らしをしており、盆正月には帰省していたのであろう。その母も亡くなってからはお盆の帰省に合わせて年に一度のお経を上げ供養していたのである。その奥さんも亡くなり、喪主となられた主人は県外で家族葬を済ませ、二人の故郷である地元のお墓に納骨をすることとなった。人間は自分の死後のあり方をも選択できる、といった平面的な話で済ますにはいかない、何か、いのち切ないものが感じられてならない。

御夫婦にとって故郷とはどのような位置付けなのであろうとつらつら思うのである。
彼等の子供、孫は県外で生まれ、父母の故郷への思い入れは薄いものであろう。これは致し方ないことである。御主人は自分の代だけは死ぬまで故郷との繋がりを続けて行きたいといった思いがあるようだ。彼等にとっても、住めば都の暮らしであったに違いない。死してその骨を生まれ故郷の墓に納めるといった心理には、いのちのつながりへの敬虔な思いがあったのだろう。それは理屈抜きの心情といったものに近いのかもしれない。

改めて「故郷」とは何だろうと思うのである。
いのちは繋がりながら切れている、としか言いようのないある意味「茫漠たるもの」である。それほど私のいのちは「大いなるものの一部」であるような代物である。或いは、私のいのちのささやかさは「なにかと一体であるところのささやかさ」であるような。それほどいのちは思いを越えて遙からやって来て、今、ここにあり、遥かな様相を呈して遠ざかっていく。

その「遥かさ」といったものをこそ「故郷」の真相ではないかと言いたい。それは人様々であろう。そして故郷を離れて生きなければならない人間達にとって、如何にも「遠いこと故に捨て難い」といったものなのではないか。それは「原郷」というべき、いのちの潤いとなっていよう。いのち生きる力の源となっていよう。

生まれた所で生きようが、他郷で生きようが、人は誰もが「原郷」といったものを抱いて生きているのではなかろうか。いのち遥かなるがゆえに生きていける。それは夢物語ではない。現に人はその様にして今のいのちを戴き、諸行無常を生きているのではなかろうか。


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「苧環の花」

苧環の花には遠き空の果て

やまびこに深山をだまき花こぼす

釣忍母の窓辺の明るさよ

虹鱒の消えゆく淵の碧さかな

正夢のごとく虹鱒あらはるゝ

わくらばや日向に厭いてうつろなる

葉桜や別れも逢ふも手を握り

繍線菊や一期一会の帯締めて

なけなしの風にさゆらぐおほでまり

いくたびも海へ出てみる夏燕





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