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zoom RSS 仏教徒が「天国」って、どうよ?!

<<   作成日時 : 2013/05/23 03:47   >>

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しもつけの花をけぶらせ忌の小雨 玉宗

住職になって20年以上になるのだが、先日ある法事で檀家さんに次のようなことを言われた。

「方丈さん、故人も天国で見守ってくれているでしょうね。」

本人が「天国」にどのようなイメージを重ねているのか判然としないのだが、おそらく本人も判然としないまま口にしているのではないか。まあ、目くじら立てることでもないといった見解もあるのだが、というより、目くじら立てる社会でもないという現実もないことはないのであるが、それにしても檀家さんにこのような「いのちの教化」をしてきたわが身の力不足を痛感させるのに十分であった。

今回の事例だけではなく、時々マスコミの求めに応じて「天国」という言葉を口にする人が多い。仏教式葬儀の場においても同様の弔辞を滔々と述べている方も居られる。そこには「天国」を「浄土」と言い換えても私には大して変わらない通念に偏った「生死観」の曖昧さが漂う。

ときに「天国・地獄・あの世」を「見てきたように」語る人がいる。願う人がいる。夢見る人がいる。「浮かばれない霊の存在」を忠告する人がいる。怖れる人がいる。納得する人もいる。「見てきた」ことや「見えている」ことを否定はしない。然し、この世には「見たこともない」「見えてもいない」といった人が圧倒的に多い現実がある。「見てきた」「見えている」ことを楯に人心を揺れ動かすのは如何なる意図や権威があってのことなのだろうかと思わずにはいられない。

釈尊は眼前の「生老病死」という諸行無常の端的から出家され、いのちを学び、人生を学んだのである。すべてはそこから始まっている。

私にとって確かな事は「生死」という「眼前の事実」だけである。諸行無常の端的だけである。目の当たりにするそのような「危ういいのち」をどう決着して戴いて生きていくのか。それが試されているのではないか、というより、生きるとはつまり、そのようなありのままのいのちをありのままに戴き、尽くし、施すことにほかならないだろう。それこそが生きる意義であり意味であり、醍醐味であり、一大事であり、無の在り様というものではないか。

「あの世」「天国」をイメージするのは人間性の然らしむるところであるが、目を曇らすことであってはならない。諸行無常の現実にしっかり足を付けて、「今という、広大にして、掛け替えのないいのちの事実」に目覚め生きていたいものではある。そのようなことを言いもし、実践もして住職してきたつもりではあったが、ときにそんな私の思い込みが見当違いであることを知らされる。まだまだ力不足の住職ではある。

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「麦秋」

天地の間を風ゆく麦の秋

麦秋や僧となる子に海見する

麦秋のくろがね眠る納戸かな

極まりて空が鳴り出す麦の秋

ひややかに大山蓮華蕾なす

栴檀の花咲き空は只青し

国盗りの山裾めぐる鵜飼舟

草引いて座五を決めかねゐたりけり

韜晦の草引くほかはよそらごと

なにはさてビールの美味き夜なりけり



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