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zoom RSS 復興の柱・「絆」再考

<<   作成日時 : 2013/05/24 03:24   >>

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はまなすの花咲くかぎり父なき世 玉宗

復興途上の東日本大震災の被災地であるが、「復興の柱」ということが言われている。
被災地復興を構築する当に「柱」となるべく、政治、経済、産業、宗教、などから様々な提言や試みが為されている。そこには地域社会再生の本質であると再認識され、震災以来一つのテーマの如くに言われ出した「絆」という価値観・世界観があるのだろう。

大震災は私たちに「災害を齎す」という自然のもうひとつの実相を目の当たりにさせた。それは諸行無常の真相を目の当たりにしたということでもあろう。自然の猛威の前に人間やその文明のなんと脆い事であったか。人類の歴史は、そのような自然との闘いであり、受容であり、和解の歴史でもあるかの如くである。
そして人間は、自らの存在の脆さ、危うさを乗り越えるためにも「支え合うこと」を学ばなければならなかった。人間と言う危うく、脆く、弱い存在。「絆」はその存在の前提条件ともいうべきものである。

ところが、人類の歴史は「支え合いの歴史」でもあるが「略奪の歴史」でもある。天災、人災、吉凶禍福、良縁悪縁、それらは本質的に選ぶことのできない「予想外」というべき諸行無常の端的な有り様である。それはいのち生れてきたことも、人の出会いも、別れも、生も死も、そのような「予想外」の代物であろう。

「絆」とは何であるか?誰が何に対して言うのであるか?それは人間界隈だけの話であるか?そこに人間の欲望の左右される怖れはないのか?

復興の現場を私たちはどれだけ知っているのだろう。
支えられた、支えてやった、支えられなかった。俺が、私が、お前が、あなたが、「絆」という名のもとに「絆」を建前として、或いは本音として、或いは金科玉条として、或いは楯として、或いは方便として、或いは手段として、自己増殖の愚かさを繰り返してはいないか?
「絆」は私たちのいのち存在の条件ではあるが、その条件もまたいのちがそうであるように極めて危うく、揺れている。「絆」が自己や他己の「柵」になる可能性だってないとは言えないだろう。人間とはどちらか一方に偏るものの捉え方をする癖がついているものだ。「絆」もまた極端に人間存在の条件として全面に押し出されてしまう可能性がある。そのような代物を「復興の柱」とすることに、私などは些か躊躇する。

私などのような世間に必要とされてもいない無用の人間に言われたくもないであろうが、「復興の柱」は何であるかと問われたならば、それは「諸行無常」であると言って憚らない。

東日本大震災で故郷の山河を破り、多くの無辜の国民のいのちを奪った当に「諸行無常」こそが、傷付いた被災者たちの再生、復興の柱であることを私は信じ疑わない。
人はだれもが人生の被災者である。生き残ったということは、無念にも死んでいった人間たちの血と肉と心を喰っていくという事ではないか。それは決して恥ずべきことではない。いのちあるがままに生きること以外に、限りある存在者である人間の彼岸がどこにあるというのか。

人間は誰もが遺族である。遺族であるということは誰もが死者と共に生きているということだ。過去も、今も、未来も。生は死と共にあり続ける。生きるとはそのような次第の自己再生であろう。私が卑下したり、傲慢になったりできるほどに、わたしのいのちは何かと一体である代物である。私が思うほどいのちは小さく、卑小なものではない。比べられるものではない。誰もが諸行無常の、絶対のいのちを戴いている。人生をあきらめる理由がどこにあるのだろうかと言いたい。「諸行無常」こそが「復興の柱」であるとは、ひとりひとりのいのち生きる原点がそのようなものであるからだ。お坊さんがその辺を語らずして誰が語るのであろうか。

支えるものも、支えられるものも共に救われている。宗教とはそのようなものではなかったか。宗教とはそのような領域の力で人間に関わっていくのではなかったか。
今も苦しんでいる被災地の皆さんへ、私は「生きることをあきらめるな」という「諸行無常」から学んだ言葉を送る意外に「絆」の一端を支える術を知らないのである。合掌。

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内 容 ニックネーム/日時
私は宮城県に在住する者です。

確かに絆は津波地震復興に親和性があると思います。しかし、この度の惨事は原発事故を含んでいます。津波地震の被害は時とともに復興する一方で、原発事故は今後長く悪影響が残ります。政府や報道機関は、事実を隠蔽しつづけ、事故の影響を矮小化し、多くの国民は危険性に見て見ぬ振りを決め込んでいます。津波地震の復興と同じように、国民は絆で原発事故に対応しようとしています。これは間違いです。危険なものは危険だとはっきり知らせ、どんなにお金が掛かっても、子供や女性を優先に、危険な場所から移住させ、救える命は救うべきです。

いま人々の心には、命より金、未来より今、他人より自分、という気分が横溢している気がします。先祖から受け継いだ命や大地を、自分の代だけ好きなように使えればいいという、まことに傲慢な心が増殖していると感じています。

原発事故への対応に限らず、国民国家より多国籍企業が優越するTPP、戦争のできる国にするための憲法改正、貧乏人が死ぬのは自己責任という各種法律改正、これらを見ると、人々の心は鬼畜のごとく、不寛容で、他者の痛みへの想像力を失っているように見えます。

全国で極右デモが頻発しています。大阪での動画を参考にご覧下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=GoTBRpcaZS0

ごく特殊なケースと思われるかもしれませんが、インターネットの世界には類似の悪罵が膨大に溢れかえっています。また、わたしにも育ち盛りの子供がいますが、普通の中学生や高校生の間でも、悪罵への共感が広がっていると聞いています。ごく少数の特殊な人の話でも、別世界の話でもありません。

絆が大切なのではなく、結ばれたさきの心が、命の輝きを放っていることが大切なのではないでしょうか。
絆について
2013/05/24 10:23

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