再生への旅

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zoom RSS ありのまま考・墓石とは何か?!

<<   作成日時 : 2013/05/31 04:30   >>

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總持寺へこれより一里山空木 玉宗

昨日に引き続き「ありのまま考」を少し切り口を変えて述べてみたい。

先日、教区のお葬式に随喜した折のこと。
宗派を越えたお坊さん達の控室でお墓の話題となった。無縁墓の処分から今風の「ありのまま」の一端が見えてきたのである。

それは他でもない「墓石」の扱いについて他宗派のお坊さんが私に聞いて来たのである。「墓石」の「棹」の扱いに苦慮してどこか引き取ってくれないかというのである。「南無阿弥陀仏」とか「南無釈迦牟尼仏」とか「何々家先祖代々」と掘られた、あの部分である。
宗門では一般的に、「墓石改修」や「移転」などの際、「抜魂供養」の加持読経をして「墓石」を処分する。使わなくなった「墓石」は業者が「処分」しているものとばかり思っていたのだが、昨今では必ずしも引き取らないようなのである。施主の方から「瓦礫処理」されることを「罰が当たる。祟りがある」といった理由で「嫌がられる」こともあるし、業者も又同様の理由で「瓦礫」として「持ち帰る」ことを躊躇するのだろう。

件の「墓石」を何がしかの「手数料」を取って引き取っているお寺もあるという。引き取った後どのような「処分」「供養」をしているのか知らないが、これって「廃棄物処理法」に違反しないのだろうかといらぬ心配をしたりする。引き取らない業者との連携プレーではないかと勘繰ったりもする。それもこれも「施主の要望に応える」サービスの一端なのだろう。お金さえ払えば何でもしてくれる世の中である。件の「墓石」が「瓦礫扱い」されていなければ幸いである。

抜魂供養した「墓石」は文字を削り「石」として再利用して構わないというのが私の考えである。「石」として「再生」させてあげればいいのである。「石」という「もののいのち」を大事にしてやればいいのである。施主も業者も、はたまたお坊さんの方でも、「仏名の彫られた石」を「捨てる」のに忍びないという気持ちは解らないではない。それならばとことん「墓石」として、「経文」として「供養」し続ければ良いのである。実際のところは「用済み墓石の処理」に困り果てた末の関わり合いなのであろう。そこには何処かに「墓石」というものへの「曖昧さ」がある。「経文」への無理解といってよい「迷信」が漂う。「諸行無常を生きる」ことへの誤解がある。「仏と共に生きる」ことへの本末転倒がある。

取り払われた「石」への「畏れ」を抱くことを笑うつもりはないが、何度も言うように、それは現実を真っ直ぐ見ていることになるのだろうか。或いは、人は現実を「ありのままに」見たいとも思っていないのだろうか。人は自ら「迷いたがっている」のではなかろうかと思いたくなる。人間にとって「ありのまま」は余りにも「過酷で、受け入れ難い」ものだということなのだろうか。或いは「ありのまま」の世界とは余りに「妙で、怖ろしく、闇」なのだろうか。現実とは何なのか?

自分の見たいように見、言いたいように言い、耳も目も心も貸さない。迷いたいように迷い、いのちを真っ直ぐ生きることをしない。生と死の宿命に目をつぶることを繰り返す。寛容さ、柔軟心といったものが希薄になろうとしている。諸行無常の現実に生きながらも、妙に現実離れしつつある現代社会。そして現代版迷信の片棒を担いでいるお坊さん。そんなことを今更ながらに感じ、些か鬱陶しくなった。

今風「ありのままの現実」とでも言うべき事例の一端である。これでいいのかと言いたい。

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「扇子」

先生の素性が見ゆる扇かな

夏蝶の何を見て来し昂ぶりぞ

ぼうたんの身をゆだねゐるしづけさよ

如何ともし難く草を引くばかり

ごちやごちやとなんじやもんじやの花盛り

世間知らずに手を焼いてゐる扇子かな

姉さんは気立てがよくて花菖蒲

夏萩に風の閊へてをりにけり

朝はさながら港のごとし薔薇を嗅ぐ

山法師いつかは空を舞ふつもり





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