再生への旅

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zoom RSS 花祭り・いのちの尊厳さ

<<   作成日時 : 2013/05/09 04:39   >>

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空といふ風の海原潅仏会 玉宗

昨日は大本山總持寺祖院専門僧堂の釈尊降誕会であった。
随喜したかったのであるが体調も芳しくなく、如何せん声が出せない。夫人はご詠歌講員として出席した。我が子の顔を久しぶりに見てきて嬉しがっていた。夫人が撮って来た法要の写真を見ながら、怠りなく首座を勤められているようで師匠としてもひと安心。夏安居もまだひと月も経っていないが、7月の上旬には首座法戦式が予定されている。三ヶ月安居の総仕上のような儀式であるが、そろそろその準備も師匠としてもし始めなくてはならない。

ところで花祭りの写真を見て感じるのだが、お坊さん達の表情のなんと真面目で、厳かであることか。凡そ仏道というものは「いのち」への「自己」の関わり方である。「いのちあるがまま」の表情というものがあるとしたら、そこには多少なりとも「人間らしさ」を越えた「無の表情」といったものがあるだろう。「厳かさ・尊厳」とはそのようなものだ。決して「作為」や「強制」によって作りだされる「仮面」のごとき様相ではなかろう。

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のびやかに、こだわりなく、かたぐるしくもなく、すべてを受け入れ、わたくし無く、しかも侵し難く、後光を放ち、仏像のごとき表情と言えばいいだろうか。人様の前に立って恥ずかしがっている様では話にならない。人が見ていようが見ていまいが、真っ直ぐ自己を見つめ、戴く力量が常に試されている。そのような自己が、とき独りであったり、ときに大衆であったりするというだけのことだ。権威などといった妄想の入り込む余地など本来どこにもない。いのちとはそういうものだからだ。

「かたち」や「威儀」を疎かにしない禅の面目は「いのちまっすぐに生きる」ための方便である。そこにどうしようもない人間らしさに迷う私が救われる端的さがある。こころに迷う私がいる。ものに迷う私がいる。無いものに迷う私がいる。あることに迷う私がいる。かたちに迷う私がいる。いのち生きるとは如何なる矛盾力なのか!いのちは明らかに思量を越えている。越えるとはどういうことか?それは言葉の次元ではないということだろう。言葉の地平をどこまで行ってもそこには言葉の荒野しか展開しない。真に命の哲学といったものがあるとしたらそれは必ず思惟を放棄すことを目指しているだろう。

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仏道はもとより哲学ではないが、哲学がないのではない。実践ではあるが実践に偏向しているのでもない。共に生きる方途といったものを、それぞれの自己のいのちの確立を置いて余所にないこと言っている。仏道はそのような方便で社会にアプローチし、宗教と呼ばれることに甘んじている。それぞれが自己のいのちの尊厳さに目覚め、戴き、尽くす。貪るものがなく、引っかかるものが何もない。素手で生きる。素足で生きる。素顔で生きる。素心で生きる。仏道の平和とはそのような代物である。武器と言えば言葉一つでも武器になる。平和と言う言葉を掲げて戦争を繰り返す人間の愚かさをどう説明すれば気が済むのだろうか、人間は。

仏道はどこまでもいのちの話である。その尊厳さを肯定しての「行」である。そこには自ずからなるいのちや人生への包容力、寛容さといったものが湧きでているに違いない。弟子にもそんな表情のお坊さんになってほしいと思っている。

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「ぼうたん」

寝てばかりゐては薫風やり過ごし

ぼうたんのこれみよがしの咲きやうで

ぼうたんの身も世もあらぬ花盛り

ぼうたんの身も蓋もなき散りやうで

日に一度草むしりして長生きで

床臥せの枕に夢む卯波かな

父よ父よ死んでも恋しい焼酎か

遠足の囀るごとく過ぎゆけり

凡そ天下に田螺鳴くのを見て過ごし

みちのくの海は哀しき望潮

蠢いていのち翳なす青葉潮

薄暑てふ遙かなものを身に纏ひ

夕焼けに生れし手を振る仏かな

藤咲くを待てずに蜂の来りけり




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