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zoom RSS 今日の教外別伝・足の裏で考える?!

<<   作成日時 : 2013/05/10 03:51   >>

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混み合うて咲かねばならぬ躑躅かな 玉宗

前大本山總持寺貫首・板橋興宗禅師が金沢大乗寺住職であった頃、本堂の露柱に「足の裏で考える」という貼り紙があった。先日、越前の御誕生寺へ伺ったら、やはり庫裡の柱に同じような張り紙がしてあった。マッサージ業界のコピーではない。仏道が命の実感・身心学道に参究することに尽きるという禅師様ならではの修行者への指南であると受け止めたい。

われわれは「あたま」が人間の特権であり、他に換え難い能力であると思っている。頭の回転によって描かれた世界が文明を構築したことを否定する気もないが、人類始まって以来の苦しみや迷いや愚かさも又、その「あたま」の能力のなせる所業であるのが悩ましいところ。

考えたり、言葉にしたり、分別したり、苦悩したり、様々な「思い」以前に、息を吸って吐いて、ものが見え、聞こえ、触れて、味わって、世界に反応している命の事実がある。
世界と一体になることが修行の眼目であるとは、言い方を変えるならば、本来的に世界と一体であることに気づくことが求められているだろう。そこにはどうしても「自己を忘ずる」という「分別」の放擲、棚上げ作業が不可欠なとなる。

「あたま」世界だけが命の全分ではないということ。先ず、生きている命の事実があり、私の言葉、私の考え、というようなものは後からの説明に過ぎない。説明や分別が悪いというのではなく、その「分別」が「先走ったり、後追いする癖」が私の世界を狭小なものにしているのではないかという反省がある。「わたし」といった「括り」は「あたまの所産」であり、それが諸悪諸善の根源ともなろう。

人間は迷いたがる動物でもあると言いたくなるような「あたま」を持っている。考え、悩める頭の世界を持った分だけ命が宙に浮いているといってもよい現実があろう。それを「妄想世界」とは言いたい。「あたま」が人類の懸命さであり愚かさであることを歴史が証明している。「うまく考える」に越したことはなかろうと、人はまた「あたま」を使いはじめる。「うまくとは?」といった具合である。

禅師様は「息をしているこの事実、これを仏という」とまで仰る。「それ以外のどこにも有難いものなどありはしない」のだとも。「なんともない、この事実に気づき、立ち返ること」を仏道とは言うのだと。
「足の裏で考える」とは、この端的にして、具体的な命の事実を実感し、生きるバネとし、柱とし、力とせよ、ということではないのか。「足の裏」は考えない。いのちの実感があるだけである。今のいのちの事実、「一体」があるのみ。それこそがぶれない人生を送るコツであると仰っているのである。私はそう思っている。

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「風薫る」

ためらひつ生きてしけふの風薫る

薫風や凡そ天下に用のなく

恋人を透かして薫る風のあり

鯉幟子は鎹の天邪鬼

生贄の妹眠る夏野かな

夏野ゆく私一人の空広げ

寝そべれば海の音する夏野かな

どこまでも夏野どこまでも旅路

夏雲よわが肉叢の醜さよ

恋人がはためいてゐる南風

夏燕水の星なるふるさとの

忘却の始まつてゐる夏の空

鳥はみな光りの奥へ夏来る

海峡を渡る夏雲淋しからめ

よく晴れし夏の翳りのありにけり




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「足の裏で考える」西口スタンディングの一時間
 能登の禅寺「興禅寺」の住職、市堀玉宗さんのブログに「足の裏で考える」という言葉が出ていた。板橋興宗禅師が金沢大乗寺住職であった頃、本堂の露柱に貼り紙してあったという... ...続きを見る
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2013/05/11 13:58

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