再生への旅

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zoom RSS 家族という学びの場

<<   作成日時 : 2013/06/09 04:27   >>

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優曇華や血脈つひに仄くらき 玉宗

身辺で家族、親子について思うことが続いている。

月参りに伺っている檀家さん。子供さんが学校をなんとか卒業したが、適応障害とまではいかなくとも中々自立できない状態が続いているのだと言う。何度か菩提寺の住職として相談を受けているのであるが、勢い私自身の体験則からの傾聴ともの言いになっているのがある意味情けなくもある。

こんな子供に育てた覚えはないという嘆きに壱分の理はあるとしても、子にとってはこんな親や環境で育ててほしくはなかったという訴えにも十分過ぎるほどの理が備わっている。人生は割り切れないという真相が、既に親子の間にも横たわっているのだ。

子供は親が思った通りには中々育たないが、結果的に良くも悪くも育てたようにしか育たないもののようである。血を分け肉を分けた「分身」という「どうしようもなさ」に地団太を踏むこともあれば、感謝歓喜する事もある。家族とは幸いの源泉にして災いの源泉でもあろうか。

家族という最初の人生の学びの場。親にとって子は生を授かった縁を全うさせるという責任のようなものから中々抜け出せないのが実際である。どこかに子という宝を持ち腐れにしたくないという思いが親には潜んでいる。挙句に私のような碌でもない親から生まれて、育てられて、可哀想なことよ、といった半ば自暴自棄のような思いに駆られたりもする。

それにしても、親はどこまで子を支えてやることが出来るだろうか。分身と雖も人生の痛み、生老病死を替わってやることはできない。いのちは繋がりながら切れている。切れながら繋がっている。そうとしか言えない、思えば頗る「不思議な、奇妙な代物」ではあるのだ。

思えば親とて最初で最後の人生経験の繰り返しである。人生とは息を引き取るまで学びの連続である。この世に生れて以来、子であることを学び、家族であることを学び、隣人であることを学び、社会人であることを学び、親を学び、生老病死を学び、自己を学び、過去現在未来を学び、人生を学ぶ。常に学びの現在形であり、完成とか到達といったことは妄想なのであろう。

不肖の子を授かったことも、共に生きることも、そのような人生の巡り合わせを戴いた、わがいのちの風景なのである。子の自立も大事だが、親は親としての自立を学ばなければならない。学びに終わりはない。一生とは学びの一生のことだ。親という自己の世界を学んでいる今を、逃げることなく、追いかけることなく、構えることなく、真っ直ぐに戴いて「縁を尽くす」「縁を施す」意外の、どこにも私の人生はありはしない。子にとってそうであるように、いのちとは私が投げ出して済ますことができるほどいい加減なものではないのである。

いのちの面目、大事さ、尊さ、それを子に伝えることが出来たならば、親の責任の大半は果たせているのではないか。生老病死をして自己を学び、生老病死をして子に繋がる。共にそのような一期一会の今を生きているには違いないのである。それ以外の何を人生に言いたすことが出来るのか、私には解らないのである。

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「夜の帷」

はんざきを恋に溺れし姉かとも

妻に恋して蝦蟇の夜路を歩きけり

蟇鳴いてよからぬ夜の帷かな

月影に落ちぶれてこの河鹿宿

あかはらの腹翻し沈みけり

守宮鳴く四畳一間や神田川

くちなはの淋しき貌のふりかへる

みそ汁の味噌が沈殿梅雨曇

遥かなる毛虫の山河あさぼらけ

目高らの仕合せさうに影もなく


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