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zoom RSS 家族という学びの場・その2「親の愛情・子の愛情」

<<   作成日時 : 2013/06/10 04:15   >>

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紫陽花の色となりゆくきのふけふ 玉宗

親子間の愛情とはどちらも無条件に生まれ、理解され、受け入れられるものと思い込んでいたが、どうもそれは安易で非現実的な考えである。子を持つ親になってみてその愛情の異質なることを知らされていると言ってもいい。

親の存在が無性に疎ましくなるときがあった。一方で親の愛情を信じて疑わない、当然のものであるという理由のない思い込みがあった。まるで生まれる前からそうであるような思い込み。その愛情は又、憎悪と表裏一体ではないかとさえ思われるほどの不純さと無知に満ちていた。無性に愛しく、無性に嫌悪される存在であった親。

子が親に寄せる愛情というものは、どこかで恐怖感を伴っているのかもしれない。人生で出遭う最初の未知なる故に全幅の信頼を寄せ、未知なる故にその不可解さに怯えているかのようでさえある。

親への愛情は親という異質なものを受け入れ、乗り越え、脱皮しなければならないための瘡蓋のようなものであった。そこにはやはり家族血縁以外の他者の存在の出現が左右しているのだろう。子は先ず親の存在を否定することが自立の一歩なのかもしれない。それはまるで社会性という免疫をつくるための自傷行為のようでさえある。

片や、親の子に対する愛情は、自己の占有物への煩悩に似ている。親にとって子の存在は分身でありながら置き去りにしなければならないある種の絶望感・失望感を伴う公の宝のようなものなのである。血肉と雖も自己を生きるのは自己であり、親と雖も子の人生を生きることはできない。繋がりながら切れ、切れながら繋がっている。遠くて近い、近くて遠い存在。

子の命もまた可能性そのものである。勢いそのものである。占有したり操作できる筋合いのものではないと共に、一人歩きが危ぶまれる無知を背負っている。子の自立とは人生や自己への無知を脱皮する事によって叶えられると言っていいだろう。子には「生の勢い、軽やかさ、柔軟さ」が確かにある。親の愛情は、子の未知なるいのちの障碍となってはならない。

愛情は無償にして無性なるものである。そうではありながら、否、そうであるからこそ、愛情を失う事はその存在を失うことと同義であり、その存在の欠如は自己の欠損でもある。然し、親子と雖も、人生や人格は共有できない。が共感はできる。人間への思いやり、いのち哀れむこころ。そのようなものは、異質でありながらも同心円状である親子間の愛情を学ぶことで育てられてゆくものではないだろうか。

親にとっても、子にとっても、愛情もまた学ぶものなのだ。

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 「十薬」

仄暗き日々や十薬抜くとせむ

夾竹桃旅に汚れし靴過ぎる

蛍火の草を落ちたるひとしづく

三界にうち捨てられて昼寝覚

くちなはの残像にしてよく見ゆる

もう二度と舞ふこともなき花菖蒲 

いはれなきこの世に風の涼しさよ

夏燕空の機嫌を計りかね

麦飯に腹が膨らむなし崩し

睡蓮をめぐる頭の悪さかな

よく育つ夏萩に風閊へをり

葱坊主かはたれどきを憮然たり










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